[[ナコニド家(リューベック)]]/[[主の1249年。この年、王エンゲルブレヒトの妃ウテが死んだ>主の1249年。この年、王エンゲルブレヒトの妃ウテが死んだ]] **後継者選出会議 [#s16c959e] '''1291。神の恩寵によりフランス王であるロベールは、軍勢を率いてシリア地方へ進撃した。''' '''そうして彼はベイルート、アレッポ、アンティオキアの町を激しく攻め立てた。''' (『後カペー史』) #ref(duchyofnorfolk1273.jpg,nolink) ノーフォーク公国、1273年 イングランド30州中12州保有 独立したエイマール公はフランス王と同盟を結び、領土の拡張に励んだ / ユングリング家に要地オックスフォードシャーとブリストルを与えて 独立させてしまったことをエイマール公は死ぬまで悔いていたという 主の1273年4月、ノーフォークはノリッジの町に 北仏と南イングランドの聖俗諸候が集まってまいりました。 >「誰が第四代ノーフォーク公にふさわしいか?」 エイマール公の御病気が重くなり、後継者を選ぶ必要が出てきたのでござります。 しかし、それなら公の子供たちのうちから選べばよろしいではござりませぬか? このような大きな会議をひらくというのは前代未聞のこと。 #ref(alfred.jpg,nolink) どもりのアルフレッド エイマール長男 さきのグロスター伯 隣国でブレティヴィル家の庇護下に暮らす というのも、継承予定者でござりました長男アルフレッドが 国替えを断固拒否したため父親に追放されてしもうたのでござります。 なんともしまらない話でござりまして、 加えてほかのエイマール公子息たちの出来があまりようござりませなんだ事が この会議がひらかれた真の理由ではないか……という噂。 ともあれ、候補者たちを見てゆくことにいたしましょう。 #ref(louis.jpg,nolink) エイマール次男ルイ ケント伯 次男のルイは名君であられるエイマール公のお世継ぎとあって 諸候の人気が高うござります。 それに兄弟のなかでは一番「まとも」でいらっしゃいました。 #ref(philippe.jpg,nolink) ギヨームの長男フィリップ レスター伯 エイマール公の甥にあたるフィリップは 君主らしき鷹揚さで民の人気を集めるお方でござります。 すでに領主としての実積があり、能力的にも弱点がござりませぬ。 #ref(gregory.jpg,nolink) エイマール弟グレゴリー 宮廷付き司祭 能力でいえばエイマール公の弟グレゴリーも資格充分。 公を側で支えてきた経験が光ります。司教たちは彼を推しますが、 高めの年齢と短気が障りとなるやもしれませぬ。 #ref(nakonids1273.jpg,nolink) 青枠は公位継承候補者 三人の候補者の優劣をめぐって出席者たちは口汚く罵りあった この手の会議の例にもれず、論議は紛糾に紛糾を重ねました。 幾日もかかって出た結論はと申しますと……。 >「グレゴリー・ナコニドが次のノーフォーク公となるだろう。 彼には生前贈与領としてエセックス、グロスターシャー、リンカーンシャーが与えられる」 決め手は婚姻関係でござりました。 グレゴリーは長男アダムにシュターデン家から嫁を迎えたとあって、 公妃ソロメアを始めとするシュターデン家臣団の強力な支持を取り付けたのでござります。 #ref(event_recovery.jpg,nolink) それから3年が経ち、エイマール公の病いは肺に至ります。 ところが、すわ継承かと身構えた諸候らをよそに 公の御病気はご回復の兆しを見せ始めました。 じりじりする諸候らの見守るなか、 ついにエイマール公が終油の秘跡をお受けになったのはさらに3年ののち。 まだ冷え込みのきつい1279年初春のことでござりました。 >「どれほど善政を敷き……いくさで公国の勢威を高めても…… 老いて病いを得れば『はよう往ね』としか思われんようになる…… 弟よ……実につまらぬ……つまらぬものだなあ、人の世は……」 公正の人エイマール、49歳の帰天でござりました。 グレゴリー公は兄君の亡骸をド=モンフォール家ゆかりの教区教会に 手厚く葬らせたということでござります。 **悔い改めよ! 悔い改めよ! [#e2a60071] #ref(adam.jpg,nolink) グレゴリー長男アダム ノーフォーク公国尚書長 主の1282年秋、ノリッジ宮廷は大騒ぎになりました。 尚書長アダムが廷内で襲撃を受け、傷を負ったのでござります。 >「……誰の仕業か、解っております」 #ref(martin.jpg,nolink) 兄殺しのマーティン グレゴリー次男、グロスター伯 グレゴリー公の長男次男は、それはそれは仲が悪うござりました。 それぞれ先妻、後妻の初子にあたるものでござりますから、 両方の母君の御実家からついて参った侍女や乳母が またこの対立をそそのかすのでござります。 今度のこともどうせつまらぬ言い合いが元なのでござりましょう。 しかし廷内で流血を見たとなると事は捨ておけませぬ。 グレゴリー公はマーティンに出頭を命じますが、答えはござりませんでした。 >「出向かぬというならこちらからゆく! グロスターへ進軍せよ」 とにかく短気な方でござります。 言い訳もなにもあったものではなく、とっととグロスターシャーを召し上げて 次男マーティンをよその国へと放逐しておしまいになりました。 冬になってからのことでござります。 ノリッジ城の門前に裸足でたたずむ男が現れるようになりました。 その者の名はマーティン・ナコニド。 親族殺しの汚名にまみれた彼を どこの宮廷も受け入れてはくれなんだのでござります。 >「罪深いわたしは野垂れ死にするのが定めというもの。 だがもしお慈悲が父上の心にあったならば……」 しかし、グレゴリー公はあまりにも厳しいお方でござりました。 主の1283年1月、囚われのマーティンをノリッジの街頭へ引き出し、 死刑執行人の斧をおのが次男にたまわったのでござります。 >「こんどの殿様は慈悲を知らぬ御方よ」 「ああ、お可哀想に……一番可愛がっていらっしゃった御子ではございませんか」 #ref(gregory2.jpg,nolink) グレゴリー公の評判はがた落ち、公のゆくところゆくところ 陰口と後ろ指がついて回るようになりました。 親族殺しの汚名をこんどはグレゴリー公が ひっかぶってしもうたのでござります。 #ref(aveline.jpg,nolink) ノーフォーク公国尚書長エヴリン グレゴリー五女 父親の悪評をたくみに覆い隠した >「わたしが諸候を説得いたします。 お父さまは堂々とまつりごとをなさっておればよいのです」 娘エヴリンの助けがなければどうなっておったことやら。 エヴリンは夫であるグレイストーク卿とともに父親を支え続けたのでござりました。 なんとかこのまま持ちこたえられればよろしゅうござりますが……。 #ref(adam2.jpg,nolink) が、やはりと申すべきか、そうは問屋が卸しませなんだ。 主の1287年2月、後継と目されておった長男アダムが とつぜんデヴォン伯領へ出奔してしもうたのでござります。 後妻の娘である妹エヴリンに尚書長職を奪われた事が我慢ならなんだのでござりましょうか……。 アダムはこんな言葉を残してゆきました。 #ref(mathilde_danjou.jpg,nolink) 今となっては忘れられた理由で暗殺された、マーティンの妻マティルド >「弟マーティンに罪はなかった。 あの襲撃はわが手の者に妻を殺されたマーティンの正当な復讐だったのです」 マーティンに罪はなかった! 例の事件の真相はグレゴリー公に大きな衝撃を与えました。 それからというもの、グレゴリー公は祈り、また祈りの日々を過ごされます。 日頃の強気とはうってかわって粛然とした御様子でいらっしゃいました。 #ref(robert_capet.jpg,nolink) フランス王ロベール 後カペー朝第二代 文化を同じくするカペー家とナコニド家の間には親しい交わりがあった 友人のフランス王ロベールが聖地十字軍の誘いを持ちかけてきたとき、 グレゴリー公が矢も盾もたまらずに応じなさった訳が これでお分かりになるでしょう。 >「夜ごとの悪夢に我が魂はすりきれてしまいそうだ。 聖地へおもむき、その罪を償おう……」 **十字の旗のもとに [#r7aeaae4] 公国のあらゆる領主に出征令が下ります。 町や村の広場では喇叭が高らかに吹き鳴らされました。 #ref(event_crusades.jpg,nolink) >「聖戦に集え! 汝の罪とがはすべて免ぜられるであろう、 汝は天上と地上の富を得るであろう、 今まさに、天の国は汝らのものである!」 そうして1289年の秋までに 騎士9000を含む総勢61000という大軍勢が招集されました。 彼らは手近な港から出航し、カレーやノルマンディーの海岸で集結いたします。 #ref(crusade1289.jpg,nolink) 1289年十字軍におけるノーフォーク公国軍の経路 資金の潤沢なフランス王軍はマルセイユやエグモルトから海路を取ったが、 ノーフォーク公国軍はイタリア半島突端オトラント港まで長途行軍せざるを得なかった これがアルプスを越え、イタリアを縦断してみれば わずか24000足らずにまで減っておりました。 兵16000を拠出した王領エセックスの軍隊などは今はわずかに6800。 なにしろ給金など払えませぬから、道中すべて略奪でしのいでおりました。 病気で倒れた者あり、逃げ出した者あり。 グレゴリー公は聖地遠征行の困難さを見せつけられる思いでござります。 これでもしすべて陸路でゆくということになっておれば、 いったいどれだけの兵が失われておったことでござりましょう……。 #ref(battleofgalilee.jpg,nolink) 1290年1月18日、ガリラヤ湖畔の会戦 イェルサレム王ルイ・ド=コートネイはフランス王に窮地を救われた ようやくサンジャンダークルの港へお着きになったグレゴリー公を フランス王ロベールは抱擁をもって迎えます。 >「よく来てくれた、我が友よ!」 >「友よ、ガリラヤでの勝利おめでとう。 ときにセルジュクは内乱に苦しんでいるそうだが」 >「それはもう片がついた。 アラブ人の土豪ヤッセン家が帝国の残骸を乗っ取ったのだ。 一方でトゥルクメンの強力な遊牧民がアナトリアに伸びてきているし、 ペルシアではモンゴルが頑張っている」 #ref(5greatpowers.jpg,nolink) 1290年、異教徒五強 トゥルクメン遊牧民のガズニ朝、ヤッセン朝(旧セルジュク朝)、 モスルのウカイル朝、スーダンのマールワーン朝、イル=ハン国 >「さっそくだが君にはシリア戦線を頼みたい。 特にアンティオキアは教皇聖下じきじきの奪回指令が出ているのでな」 >「承知した、ロベール。 だがその前にイェルサレム巡礼を済ませてもかまわないだろうか」 ロベール王は友の苦悩をよくご存知でいらっしゃいました。 王のはからいで、グレゴリー公は心ゆくまで 聖地で祈りを捧げたということでござります。 #ref(jerusalem.jpg,nolink) あこがれの聖都イェルサレム http://historic-cities.huji.ac.il/より 主の1291年春までにノーフォーク公国軍はシリアに展開を終えました。 その武威に怯えたか、ヤッセン朝の二つの藩王国がそれぞれ5250万ポンド、 5829万ポンドという巨額の賠償金を支払っていくさから抜けたため、 グレゴリー公のふところもほくほくと暖まってござります。 >「十字軍というのはずいぶん儲かるものだな。 これなら毎年でもやりたい」 #ref(outremer12921206.jpg,nolink) 本国からの増援は比較的安全な仏領サンジャンダークル港から上陸し、 海岸伝いにシリアを北上した シリアでは一進一退の攻防が続きます。 1292年1月にアンティオキアを奪取いたしますが、 その6月には同市を失陥してしまいます。 >「イングランド兵の弓が効かぬ……まったく効かぬ!」 ヤッセン朝の野戦軍と兵数では互角。 しかし長弓を持つこちらの農民兵は たくみな機動をおこなう敵の軽騎兵に全くかないませぬ。 #ref(battle.jpg,nolink) 会戦初めの矢合戦でノーフォークの雑兵どもは潰走し、 騎士たちは援護のないまま突撃を繰り返すものですから 被害はどんどんふくらんでゆきました。 主の1293年5月、 フランス王軍の助けを借りてやっとアンティオキアを再奪取。 急を告げる本国からの使者が参りましたのは、 グレゴリー公がアンティオキアの城壁を巡察しておる最中のことでござりました。 #ref(thanks4gamer.jpg,nolink) 「閣下、敵兵が城門に現れました!」 >「さっさと追い払え! ああ待たせたな。何の知らせか? 俺は忙しい」 >「叛乱でございます! 留守を預かるハンプシャー伯ほかが決起、 従軍諸候の間にも動揺が広がっております!」 #ref(duchyofnorfolk1293.jpg,nolink) ノーフォーク公国、1293年 イングランド30州中15州保有 ナコニド家の強引な領土拡張は諸候の叛心を育んでしまった / 1286年、領土の実効支配によりコーンウォール公位を宣言、のちド=コントヴィル家から簒奪 旧公国領にはコーンウォールからの亡命貴族諸家を封じた なんという間の悪さでござりましょう……。 しかしグレゴリー公は瞬時に判断を下します。 #ref(gregory3.jpg,nolink) 親族殺し、十字軍への重圧、そして今度は内乱の危機 >「イングランドは我が故郷、寸土たりとも失うものか!」 敵将と交渉してアンティオキアを保持したままの休戦に持ち込み、 ロベール王からは帰国の許しを得ます。 そうしてグレゴリー公は軍勢を引き連れ、 わずか数ヶ月でイングランドへ舞い戻ったのでござります。 **よくできた姪の憂鬱 [#h37e5952] #ref(eve.jpg,nolink) エイマール次女イヴ ノーフォーク公国執政 廷臣ド=コントヴィル卿に16才で嫁いだ頃の姿 イヴ・ナコニドは賢い女性でござりました。 グレゴリー公の御治世はこのイヴと従姉妹のエヴリンとで 保っておったようなものでござります。 >「王なきイングランドでは領主の不在は即座に人心の乱れにつながります。 お気持ちはわかりますが、叔父さま、聖地遠征はおよしになるべきです」 そんなイヴの諫言を聞かずに出撃しただけに、 聖地から帰ってきたグレゴリー公は姪に合わせる顔がござりませんでした。 帰国するなりハンプシャーのオードリー家を攻めにいったのは すぐにノリッジに帰りとうなかったからではないか……などと言われる始末。 >「ちょっと叔父さま? この時勢ですから当分外征はなしに願います。いいですね?」 留守中に不満貴族をなだめるのに使った金貨の量を姪に示されて、 グレゴリー公はうなずくしかござりませんでした。 主の1295年、ひとまず内乱の危機が去りますと こんどはグレゴリー公御自身の継承問題が浮上してまいりました。 しかし。 #ref(glorioussuccessors.jpg,nolink) グレゴリー公の輝かしき後継者たち…… -長男アダム:出奔 -次男マーティン:親族殺しの上、処刑 -三男ジョフリー:無能なくせにでしゃばり、追放される -四男ウィリアム:無能なくせにでしゃばり、追放される -末っ子ジョン:領地をよこせとうるさいのでウトラメールへ島流し >「この馬鹿息子どもが……」 頭を抱える叔父にイヴは諸候会議の開催を勧めます。 >「前回の例があるからそんなに反発はないはずですよ。 お父さま、グレゴリー叔父さま、ギヨーム叔父さまの御血筋から選ぶだけのことですし」 >「ああ、聡明なる我が姪よ! いっそおまえが第五代ノーフォーク公になれればよいものを……」 例によって紛糾に紛糾を重ねた末、 継承者はギヨームの孫、レスター伯シャルルに内定いたしました。 これでエイマール、グレゴリー、ギヨーム三兄弟の系統を 公位が一巡することになります。 #ref(charles.jpg,nolink) シャルルには生前贈与領としてリンカーンシャーが与えられた グレゴリー公はようやく肩の荷を下ろした思いでござりました。 そうして思い付かれたのが次のようなこと。 #ref(joan.jpg,nolink) マーティンの遺児ジョーン・ナコニド >「うちの孫娘ジョーンをシャルルにめあわせてやろう。 きっと賢くて美しい子が生まれるぞ!」 シャルルはこれをにべもなく断りました。 グレゴリー公は本気にいたしませぬ。 >「きっと遠慮しているのだろう」 しかしシャルルは二度、そして三度断ったあと、 自分で見つけたド=モンフォール家の娘を花嫁に迎え入れたのでござります。 #ref(action_revoketitle.jpg,nolink) グレゴリーがまたキレた >「''おまえに公位は渡さない!''」 もういけませぬ。 グレゴリー公は正気を失うてしまわれました。 >「アダムを呼び戻せ!」 >「ちょっと叔父さま!」 >「呼び戻せといったら呼び戻せ! サリカ法に基づき、あいつを次のノーフォーク公にする!」 一度会議で決めたことをひっくり返す訳でござりますから、 諸候たちの反発は並大抵のものではござりませぬ。 イヴとエヴリンは南イングランドの各地を へこへこ頭を下げて回らねばならなんだということでござります。 しかも、騒動はそれだけでは終わりませなんだ。 #ref(john.jpg,nolink) アンティオキア伯ジョン・ナコニド >「ははは、親父もついに俺の良さに気づいたか」 なんたる事か、長男アダムのかわりにノリッジ宮廷に現れたのは 末っ子のジョンでござりました。 無位無官、追放の身であるアダムよりも 外地へ適当に追いやられたジョンのほうが格上だったからでござります。 >「あああもう……好きにしろ! もうおまえでよい! ジョンよ、おまえが次代ノーフォーク公だ!」 グレゴリー公はさじを投げてしまわれました。 一方イヴの尽力により、孫娘ジョーンは結局デヴォンのド=コントヴィル家に 片付いたということでござります。 #ref(edulf_deconteville.jpg,nolink) デヴォン伯エドゥルフ・ド=コントヴィル コーンウォールの亡命貴族イドワルの息子イードフリドと イヴ・ナコニドの息子 >「御免なさいねえ、ジョーン。 うちのエドゥルフは顔はあれだけど、とっても優しい子だから」 **アレクサンドレッタの悲劇 [#o4218e73] これを語らずに今宵の話を終ることはできませぬ。 主の1298年6月、フランス王ロベールの要請に応じて グレゴリー公は再び軍を率いてシリアへお出ましになりました。 今回の目標はアンティオキアに北接する要港アレクサンドレッタ。 #ref(alexandretta.jpg,nolink) 堅塞が群れなすシリア北西部 アンティオキア伯ジョン率いる先発隊は海岸山脈の山裾を通り、 易々とアレクサンドレッタの包囲に入りました。 包囲は着々と進みます。 しかしその作業中、あやまって落下した材木に馬が驚きあわて、 乗っておったジョン伯は落馬。 御背中を傷めてしまわれたのでござります。 >「少し打っただけだ。大したことはない!」 先に述べた経緯から、ジョン伯は次代ノーフォーク公に指名されてござります。 それは降って湧いてきたようなもので、 決してジョン伯の努力が認められたという訳ではござりませぬ。 ジョン伯はそれが御不満でいらっしゃいました。 父上がシリアに着くまでにアレクサンドレッタを陥落させたい! ジョン伯がそう考えておられたとしても不思議はござりますまい。 同年12月、ノーフォーク軍を逆包囲したヤッセン朝の大軍が 包囲破りを試みて突撃してまいりました。 >「者ども、立ち会え! 包囲を破らせてなるものか!」 ジョン伯は怪我の身をおし、 みずから工事用の鎚をもって防戦に務めます。 しかし……。 #ref(tragedyofalexandretta.jpg,nolink) 1298年12月19日、アレクサンドレッタの悲劇 決戦に敗れたノーフォーク軍は追い回され消滅した トルコ人はこれを「イスケンデルンの栄光」と呼んだ ジョン伯をはじめとするノーフォーク兵2600は トルコ人どもの剣の錆となり果てました。 そうして翌1299年の3月には、 ウトラメールでの公国の拠点アンティオキアをも失陥いたします。 知らせを聞き、まるで戦意を失うてしまわれたグレゴリー公は 道半ばにして故国へ引き返しておしまいになったそうでござります。 #ref(john2.jpg,nolink) グレゴリー末子ジョンの戦死により、結局ノーフォーク公位は デヴォンへ出奔した長男アダムに与えられることになった うまくいかないと言うべきか、うまくいったと言うべきか &br; 人の定めとはかくも有為転変の激しきもの。 時は流れて1305年、グレゴリー公がついに御年70で終油を受けなさるまでに それはもうさまざまな出来事がござりました。 しかし灯し火も暗うなってまいりました。 今宵はここまでにしとうござります……。 &br; [[主の1321年。幼公ヘンリー三歳の誕生日、空に凶兆が現れた]] [[主の1321年。空に大いなる凶兆が現れた]] [[ナコニド家(リューベック)]]