[[イルカの主]]

*穏健王ジャック1世(1242-1267)

1242年、先王であるギルバー1世の長男であるサヴォイ公ジャックが家臣団の選挙で選ばれて、
新しいブルゴーニュ王となった。

そしてジャック1世は、自分の持っていたサヴォイ公の地位を長男であるギョームに譲った。

1243年、弟であるシュバイツ公ギルバー2世の次男ギルバーが夭折する。
このことに民衆はジャック1世に良からぬ事が起きる前兆ではと噂になった。
だが、何事も無く平穏無事な日々が続いた。

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1249年、母であるプロヴァンス公アマヴィリアが死去する。
ジャック1世の下にプロヴァンス公の地位と領土が戻ってきたのだが、
誰を次期プロヴァンス公とするかで家臣団内で対立が起きた。

ジャック1世はマリョルカ公エルネストの三男であるタンクレーディを新しいプロヴァンス公とした。
無論、家臣団から反発が起きた。
理由として、マリョルカ公一族はあの反乱者であるかつてのプロヴァンス公ギョームの子孫と言う点である。
しかし、ジャック1世の説得の甲斐もあってタンクレーディはプロヴァンス公に即位をした。
アンドレ一族からプロヴァンス公に即位したのはギョーム以来、実に65年ぶりのことであった。

その翌年1250年、長男ギョームに長男が生まれた。名前はジョセフと付けられた。
さらにメノルカ伯エルドリックに2人の男の子が生まれた。
一人はオーレイエン、もう一人はタルピンと名付けられた。
しかし、このことを不審に思ったジャック1世はエルドリックを問いただした。
実は、オーレイエンのほうは彼の私生児だったのである。
ジャック1世は正直に話したエルドリックを許し、オーレイエンを一族の人間として認めた。

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1254年、プロヴァンス公タンクレーディに長男が誕生した。名前はギョームと名付けられた。

1257年、ジャック1世は領内が落ち着いたのを見計らって上ロレーヌ公に宣戦布告をした。
この戦いは神聖ローマ帝国も参戦するも、ブルゴーニュ王国の戦闘能力は彼らの上を言っていた。
幸運にも、神聖ローマ帝国の足元を揺るがす事態が起きたのである。
南ドイツのバイエルン公、北イタリアのケルンテン公とイストリア公が相次いで反乱を起したのである。
この戦いは神聖ローマ帝国も参戦するも、ブルゴーニュ王国の戦闘能力は彼らの上を行っていた。
さらに幸運なことにも、神聖ローマ帝国の足元を揺るがす事態が起きたのである。
ロートリンゲンのルクセンブルク公、南ドイツのバイエルン公、
北イタリアのケルンテン公とイストリア公が相次いで反乱を起したのである。
これによって、神聖ローマ帝国はブルゴーニュ王国と即座に和解し、彼らを潰しに行った。
結局、上ロレーヌ公からは直轄領であったメッス、ロレーヌ、ファルツ、マインツの
4領と上ロレーヌ公の地位を手に入れ、
神聖ローマ帝国からは数年前にシャンパーニュ公から奪ったベルダンと
神聖ローマ帝国からは数年前に彼らがシャンパーニュ公から奪ったベルダンと
直轄領としていたエヒテルナッハを奪った。
そして、ジャック1世は自分の妻であるジェネヴィーヴを上ロレーヌ公とした。

1258年、シュバイツ伯アレンに長男が誕生した。名前はゴーシュと名付けられた。
さらに、ジェボーダン伯フィリップにも長男が誕生し、マークと名付けられた。
これによって、シュバイツ公とラングトック公の一族は当分の間は安泰となった。

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1263年、プロヴァンス公タンクレーディに次男オリバーが生まれた。
この頃には隣国である神聖ローマ帝国内部の反乱は収束しており、
反乱を起したルクセンブルグ、バイエルン、ケルンテン、イストリアの4公爵は全部鎮圧されていた。
このことは、神聖ローマ皇帝の権力を強くしただけであった。

1264年、マリョルカ公エルネストが死去した。
彼の54年間の治世は非常に良く、民衆からも慕われていた。
後任には次男であるメノルカ伯エルドリックが就いた。
そしてこの年、弟であるシュバイツ公ギルバー2世に三男アンリが誕生した。
アンリの母親は数年前にギルバー2世の後妻として嫁いできた
マリョルカ公エルネストの長女ジャンヌであったため、彼の生まれ変わりだと民衆の間で囁かれた。

1265年、サヴォイ公ギョームに次男が誕生した。この子はフィリップと名付けられた。
しかしこの年、弟であったシュバイツ公ギルバー2世が他界する。
その後継には彼の長男であるシュバイツ伯アレンが即位した。
そして、彼の三男であるアンリは母ジャンヌとともにマリョルカへと移り住んだ。

1266年、この年には弟であるラングトック公アルフォンソが他界した。
この後継には彼の長男であるジェボーダン伯フィリップが即位するも、彼もまた数ヵ月後に他界してしまう。
結局、フィリップの遺児であるマークがラングトック公に即位してようやく落ち着いた。

この2人の弟の死がジャック1世に堪えたのであろうか、
1267年にジャック1世も死去したのである。
民衆は彼の性格が穏健であったことから穏健王と呼んだ。
新しいブルゴーニュ王には長男であるサヴォイ公ギョームが即位した。

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