[[暗黒の果てより]] *アレクサンドロイア帝国(南ローマ帝国)期 [#b438dcfb] #contents **アレクサンドロイア王朝概要 [#w88cda2e] アレクサンドロイア王朝は通称南ローマ帝国とも呼ばれる。この王朝がアレクサンドリアに首都をおいていたことよりこう呼ばれた。エジプトの歴史区分としてはアレキサンドリア朝中期となる。 エジプト王コンスタンティノスのローマ帝国皇帝への即位によってこの時代は切り開かれた。 &ref(ドンゴラ王朝.png,nolink); &size(10){▲王朝成立時のアレクサンドロイア王家の紋章、ビザンツ・エルサレム・エジプト王紋の上にヌビア王紋を描いている。}; この帝国はカソリックを国教としつつも、東ローマ帝国との連続性を強調した。 彼らの年代記は1089年以降の東ローマ皇帝は偽帝としており、1089年にヌビアにおいてドゥーカス王朝を継いでセオドロスが即位したと記述されている。 彼らの史料によれば、1089年以降、 -セオドロス1世ドンゴラ(1089~1111) -アレキシオス3世ドンゴラ(1111~1130) -ステファノス1世ドンゴラ(1130~1136) -アレキシオス1世ドンゴラ(1136~1140) -アルカディオス1世ドンゴラ(1136~1140) -イオンネス1世ドンゴラ(1140~1155) -イサキオス2世ドンゴラ(1155~1168) -ステファノス2世ドンゴラ(1168~1214) -アナタシオス3世ドンゴラ(1214) -ペトロス1世ドンゴラ(1214~1234) の十名の皇帝がいたとしている。 これはセオドロス以降のヌビアとエジプトのドンゴラ王朝の王達であるが、この史料では彼らは帝位を不当に簒奪されていたとしている。 コンスタンティノスの代においてそれをようやく奪回したと体裁をとっている。 なお、いくつかの正教の支部はローマ帝位がドンゴラ王朝に渡ったことを認めず、はじめはアルバニア王を、次にロシア王をローマ皇帝とみなした。 後年、ロシアはこのことをツァーリ国を名乗る論拠とした。 **コンスタンティノス10世ドンゴラ [#l83eda94] ***神童王 [#mcd91b1d] ペトロスの後を継いで彼がエジプト・ヌビア・キレナイカ・アラビア及びエルサレム王に即位したとき、コンスタンティノスは弱冠11歳であった。 なお、このアラビアという王位はメッカ征服後にペトロスが用意していた王号であるが、彼自身は即位せず、一人息子のコンスタンティノスが初めて即位した。 誰もがコンスタンティノスを幼王と見ていたが、彼は成人を待たずに親政を始めた。彼はすでにある程度の統治能力を有していたと見られる。 まず、彼は父親から聞かされ、育まれてきた少年の夢を叶えることとした。 彼の祖先、ヌビア国王セオドロスはビザンチウムでの屈辱の日々の中で皇帝への即位を夢見た。 そしてその請求権はコンスタンティノスに継がれた。父の語ってくれた夢を実現せねばならない。 彼はビザンツ帝国に宣戦を布告した、戦争目的はローマ帝位である。 これは時機を見た戦争だとみられる、当時ビザンツ帝国は新興国アルバニア王国に押されていた。 アルバニアはブルガリア王位を求めて(ただし、彼ら自身のためではなく彼らが保護した王位請求者のために)ビザンツ帝国と争っていた。 結果的にいとも容易くビザンツ皇帝は降伏し、ギリシャ半島の僻地に逃亡した。 この時点で東ローマ帝国がビザンツ帝国と呼ばれる時代は終わったのと見られる。 そのタイミングでコンスタンティノスは一万の軍を引き連れ海を渡り、禅譲を強要したのだ。 これ以後、東ローマ帝国はアレキサンドロイア帝国と呼ばれることになる。ただし、この時点ではエジプト王がローマ帝冠を獲得しただけに過ぎなかった。 ビザンツ帝国崩壊後、アルバニア王に仕えていた旧王朝の封臣が帰順するに従い、東ローマ帝国であると認識されるようになった。 ドンゴラ王朝はエジプト王国時代から引き続き、依然として首都をアレキサンドリアに置き続けたのだ。 近年ではこの帝国は西欧からは南ローマ帝国とも呼ばれていたことが分かり、東ローマ帝国は1236年に滅亡したとされている。 ***ローマ皇帝即位と皇帝としての統治 [#tec4695a] ともかく1236年8月5日、コンスタンティノス・ドンゴラは弱冠13歳にしてローマ帝国皇帝となった。 彼はカトリックであり、カトリックがビザンツ帝位を得たことに正教諸侯に衝撃を与えた。 法王は教会分裂の終わりであると喧伝し、それを祝福した。 これ以後暫くの間、神聖ローマ帝国皇帝とアレキサンドロイア朝ローマ帝国(以降南ローマとする)がカトリック世界内部で競合するという異常事態が発生した。 1239年、希代の天才として名高いコンスタンティノスは成人した。 ところで、この頃スコットランド=ドンゴラ王家はスコットランドから追い出されつつあった。 この動きは南ローマ帝国にとって容認しがたいものではあったが正統な手続きを踏んでいるものだったので反撃のしようもなかった。 彼らはエルサレムに封土をコンスタンティノスから与えられ、後の時代を細々と帝国諸侯として過ごした。 皇帝即位後はそこまで派手なことはしていないコンスタンティノスだが、1247年にはメッカにおいてカトリックを定着させている。 これ以降、ムスリムは聖地巡礼を完全に行えなくなり、長きに渡ってムスリム勢力を悩ますこととなった。 この年には長男ロマノスが生まれている。 ***ヒジャーズ大司教領 [#gaf780af] 1255年、コンスタンティノスは前王朝が失ったブルガリア王位を主張しはじめた。 この頃、彼の非嫡出児であるヒジャーズ公セオドロスが同性愛者であることが発覚し、彼は'''''「なんだこれは、たまげたなあ・・・」'''''と漏らしつつ彼は大金をつぎ込んでその事実をもみ消した。 セオドロスはコンスタンティノスが田舎の美女を孕ませてできた子供であり、かなりの美少年だったらしい。 女装させるとまるで女にしか見えないと、彼のアラビア人の廷臣が記した史料にはある。 ''記述の詳細さと交友関係を見る限り、おそらく彼が行為の相手だったのであろう。''彼の父はイスラム教徒であったが彼はカソリックに改宗している。 が、セオドロスはその年に13歳で死去。死因は肛門からの細菌感染とみられている。 どうでもいいが、近年極東の島国の一部の女子の間で歴史的な再評価が行われており、彼のファンは定時に彼の封土であったメッカに土下座していると言われている。 セオドロスの死後、メッカはヒジャーズ大司教領となった。 また、ヒジャーズ大司教領の設置を受けて、法王庁は彼を法王の後見人であると宣言した。 なお、この頃のドンゴラ王朝は宗教的にかなり寛容になっており、正教徒からカソリックへの改宗はほとんど強要されなくなった。 エジプトやエルサレム、アラビアの改宗が済み宗教的達成感から満足したからとも、言われている。 この後、アナトリアの封臣達もカソリックに改宗し、彼らの土地をカソリックに改宗させている。 これにはドンゴラ王朝は関与していなかったようで、封臣達が勝手に行ったものである。 1277年、彼は老衰により死去した。彼の後は次男であるペトラ公ロマノスが継いだ。 **ロマノス5世ドンゴラ [#zcc46914] ***948年ぶりの両ローマ皇帝 [#q7fd2e1d] 1277年、ロマノス5世は即位の時点では十歳であった。 彼は高い能力を持ちつつも、どれも優秀とは言うには今ひとつな皇帝であった。 それでも、即位後に大した混乱もなく皇帝という歴史的大役を務め始めた。 成人後は、公正な神学者として統治を行った。信仰心の高さが評価され、成人してすぐに彼は教皇の後見人となった。 それが評価されたのかどうかはわからない。1285年、法王庁はドイツ国王が即位するのが通例の神聖ローマ帝位を授けたいと申し出てきた。 &ref(神聖ローマ皇帝ロマノス.png,nolink); &size(10){▲ロマノスは神聖ローマ皇帝へ即位した。}; 当時、ドイツは混乱の極みにあり、ボヘミア王国が伸張していた。ブルグント王がドイツ王を兼ねていたが諸侯からほとんど認められていなかった。 つまり、神聖ローマ帝国は国家として完全に分裂していた。ドイツ崩壊後に神聖ローマ帝冠を法王庁が預かっていたが、彼らはようやく授けるに値する君主を見いだしたのだ。 さらに、ロマノスは古に分かたれたもう一つのローマ皇帝でもあった。 彼は一七歳で法王からローマ帝冠を授けられた。彼は若くして948年ぶりに東西ローマ皇帝を統一したのだ。 ただし、この時点では完全に統一がなされたわけではなかった。神聖ローマ帝国領域内に彼に忠誠を誓うものは一人としていなかったからだ。 後に、この事実を痛感した彼とその後継者達は欧州への介入を行い始めた。この時点ではローマ皇帝冠は統一されたとは見なされていなかった。 この頃、彼は皇帝として教会に対して王権至上法を公布すると宣言したが特に反発はなかった。 ***内乱と心労 [#la252f34] 彼の封臣達は1288年に内乱を起こした。記述をみると、1291年にその心労に耐えかねて鬱病になったようである。 1292年には回復し内乱も終わった。ただし、威信が失墜し皇帝に値しないと見なされるようになった。 彼は威信回復に努めたが、疲労が限界に達し1295年に病死した。弟のアレキシオスが彼の後を継いだ。 **アレキシオス2世ドンゴラ [#r3ebde12] ***女難帝 [#ddf6e057] アレキシオスは即位時点で結婚していたが、1299年に何者かはわからないが暗殺された。 それを聞いたアレキシオスは、'''''「葬儀は派手にしてやるか」'''''と述べ、以後彼女の話は一切しなかったという。 すぐに二番目の妻と結婚したが、彼女が浮気していることが発覚したので彼女の産んだ2人の長男と次男は廃嫡とされた。 彼は怒り腐敗した田舎の女子修道院に入れた。 その後、彼女は女子修道院からも叩き出されてローマ皇妃であると喚く変な売春婦として一生を終えたと言われる。 1305年にオック人の娘と結婚してようやく彼の女難は去ったかに思われた。 ***女性への諦めと厳格な統治 [#yc90e1de] その年には法王の後見人となり、神聖ローマ皇帝に即位し、翌年には長男ロジェが誕生した。 全てが順調だったと思われた。 が、二年後に妻は流産し彼女自身も死んだ。 彼はまた結婚したが、妻がまたもや浮気をした。 彼は女性については諦め、ロジェの教育に力を注いだ。 そして、女性についての不運を振り切ったアレキシオスは統治に力を入れた。彼は神授王権法を制定し、皇帝権力を強めた。 彼の厳格な統治に反発する臣下は多かった。それに反発するものが1319年に内乱が起こし、その最中の22年に没した。 死後、彼は福人となった。三男ロジェが帝位に就いた。 **ロジェ1世ドンゴラ [#w006e5c3] ***宮廷の西欧化 [#bce0e86d] 彼は母から継いだオック人の血の自覚を持ち、宮廷を一気に西欧化した。 15歳で即位した彼は不屈の学者として知られていた。 即位の二年後、内乱が再発した。彼は四年でこれを片付けた。 そのころ、ブルガリア王国がアルバニア王国に屈し、アルバニア王がブルガリア王位をかねるようになった。 アルバニア王はどういう訳か旧ムスリムのアサシンの長でもあった。 ***簒奪帝 [#d52bdbcb] 1333年、彼はナポリ王位を主張してナポリ王に宣戦した。彼は勝利し、ナポリ王となって南イタリアの支配権を握った。 1335年、彼は神聖ローマ皇帝に即位するとともにアルバニアに対しブルガリア王位を含めた全王位を皇帝として主張し開戦した。 2年後に彼はアルバニア王を下し、アルバニア王・ブルガリア王そしてアサシンの長となった。 アサシンの長という称号はある程度有効なものだった、配下のムスリムにある程度の威厳を見せたのだ。 彼は両ローマ皇帝にしてエルサレム・エジプト・キレナイカ・ヌビア・アラビア・ナポリ・アルバニア及びブルガリア国王にして聖ヨハネ騎士団とアサシン騎士団の長という称号を有することとなった。 国王号はまとめられてローマ皇帝にして東方諸王と呼ばれることも多かった。 1338年、ついに彼はその最大の事業、完全なるローマ帝国再統一に乗り出した。 彼はハンガリー国王に対してハンガリー王位を、ロシア王に対して称号のみのクロアチア王位を、そしてブルグント王にドイツ・イタリア・ブルグント・ロタリンギア王位を請求し始めた。 1345年、彼はナバラ王位を奪う。これによってイベリア半島へ影響力を持ち始める。しかし、イベリアには強国アラゴンが存在しており進出は困難だった。 同年、彼はセルビア王位を創設した。翌年、彼は反乱鎮圧中に流れてきた矢に当たって死亡した。 後世からは、彼は王位収集家だとか簒奪帝などと呼ばれた。 帝位はこれの息子のトマが継いだ。 **トマ1世ドンゴラ [#ee407544] ***その生涯 [#l165e8cf] トマは46年に即位した。49年にハンガリー王位を奪い取った。58年には法王から帝冠を受ける。55年に病死した。息子ジェラールが彼を継いだ。 ***凡庸帝 [#g8f6966b] 彼自身は皇帝として特に特筆するようなことがないので凡庸帝と呼ばれた。 ただ、彼の治世は公正かつ穏やか、信仰心にあふれるもので様々な文化が発展した。 しかし、後世からは彼はただジェラールの父としてのみ知られる。 後世からは彼はただジェラールの父としてのみ知られる。 [[暗黒の果てより]] TIME:"2014-03-11 (火) 02:43:23"