[[暗黒の果てより]] *その後のドンゴラ王朝 [#d07db913] **衰退 [#pc704e44] ルイの死後、ローマ帝国は急速に衰退した。法王庁は神聖ローマ帝位を再び分割し、イングランド王を神聖ローマ皇帝として戴冠させた。 その後、ブリタニアもまた法王庁と対立し帝位を剥奪される。 彼の死後、アナトリアやペルシア北部に待避していたムスリムが反撃に転じ、怒濤の勢いでアラビア半島やパレスチナを席捲した。 エルサレム王国領やアラビア王国領のカソリックは大挙してエジプトに避難した。これは後に聖地からのエクソダスとも呼ばれた。 彼らは棄民としてヌビアに土地を与えられたが、後にそれがドンゴラ王朝の命脈を保つこととなった。 なお、ビザンティウム失陥により法王庁は東ローマ帝位は空位とし、ドンゴラ王朝ローマ皇帝はエジプト国王という扱いとなった。 それでもなお、ドンゴラ王朝はローマ皇帝を自称し続けてはいた。 一六世紀に入るまでにローマ帝国はトルコ人の勢力―オスマンに押されシナイより東を征服された。 彼らはバルカン半島にまで進入し、ドンゴラ王朝の威信を傷つけた。 彼らに残されたのはわずかにエジプトとヌビアとキレナイカだけであった。 この頃、ヌビア南方に対避し南ヌビア王国を建国していた旧ヌビア王家コプト派と和解し、ヌビア王位を統一した。 歴代皇帝は南ヌビアに積極的に投資し、アフリカ東部でもっとも発展した地域となった。 また、欧州の領域では諸侯が分離し、フランスが勢いを取り戻した。 カペー家の傍流であるブルボン家が王家となった。 神聖ローマ帝国が復活しハプスブルク家が勢いを伸ばした。 アラゴンではカスティリアの諸侯の伸張とともに、一六世紀にはスペイン王国を成立させた。 一六世紀に彼らは新大陸を発見し、大いに栄えた。 &ref(16CEUROPA.png,nolink); &size(10){▲崩壊していくドンゴラ王朝ローマ帝国。最盛期の姿は見る影もない。}; まるで、ドンゴラ王朝がもたらした全てを否定するかのように歴史は進んだ。 **帝位喪失 [#b6ff0dfd] 1523年にオスマン帝国のイブラヒム・パシャにより、ドンゴラ王朝は地中海に面した最後の領土、エジプトとキレナイカを喪失した。 カイロにおける戦闘で皇帝トマ3世が戦死したことにより完全に帝位を喪失したと見なされた。ここにドンゴラ朝ローマ帝国は崩壊した。 この戦いに前後して、ルイの子孫の傍系ロジェ2世がヌビアに避難し、キリスト教国「クシテニア王国(Kingdom of Kushitenia)」を建国し、ドンゴラ王朝自体は命脈を保った。クシテニアの名前はこの地にあった古代王国にちなんでいる。 なお、この時に欧州中の王冠という王冠から宝石を抜き取って装飾したドンゴラ王朝のローマ帝冠が行方不明となった((ヌビア王冠とは別に用意されていた))。この帝冠を手に入れたものは世界の王になると言われ、一種の伝説となった。 **クシテニア王国 [#s627b95c] クシテニア王国は旧ローマ帝国内のイェルサレム・エジプト・アラビア・キレナイカの様々な地域のカソリックが避難し建国した国家である。 旧クシュ王国首都ナパタの近くに建設された首都ノウァ・ナパタに置かれた。 アラブ人の多くは彼らは途中で旅路を離脱し、イスラムに改宗して昔からさもイスラムだったかのように振る舞って難を逃れた。 だが、人種的特徴によりそれが不可能な者はヌビアに入植する他なかった。 ヌビア地方の人種構成は一変した、彼らは一気に流入したため原住民から食料を根こそぎ徴発して飢えをしのいだ、その結果原住民の数は激減した。 一八世紀後半にはカトリック・エジプト王国以来の首を赤くした欧州系が全人口の60パーセントを占めるに至った。 クシテニアは南部のアビシニアにも侵攻したが、失敗に終わっている。 宗教的にはカソリックとコプトの融合が起き、クシテニア国教会が設立された。 後年、これを知ったローマ法王から破門されたが、もはや彼らに対してなんの効力も持たなかった。 クシテニア王はクシテニア国教会の長であり、ローマ教皇が持っていた権力をそっくりそのまま受け継いでいる。 ただし、教義においてはコプト的な側面が導入されている。 一八世紀末、フランスで革命が起き西欧世界が震撼した。 クシテニアはその知らせを受けていたが、地理的に遠すぎて影響は受けないと見ていた。 その観測を裏切ってナポレオンのエジプト遠征軍の一部がクシテニア王国に侵入するに至って王国政府は動員をかけた。 しかし、西欧世界から隔絶されたクシテニア王国軍は中世並の装備しか持たなかったため惨敗した。 彼らと戦ったフランス軍の将軍はこう記述している。 どんな原住民が出てくるのかと思えば、エルサレム十字旗を掲げ甲冑を纏った十字軍騎士が現れた。 彼らは我らの銃先に猛然と突進してきたが、銃撃により一気に陣形を崩した。 捕虜をとってみれば、首回りを真っ赤にしたアラビア語のような古いオック語を話す白人だった。 彼らはどのアラブ人より脆弱で、遅れている。白い野蛮人だ。 彼らはどのアラブ人より脆弱で、遅れた野蛮人だ。 クシテニア王国は首都ノウァ・ナパタ陥落によりロジェ5世は逃亡し、イギリス軍に保護された。 クシテニアに進入したフランス軍はスーダーン共和国の成立を宣言した。 &ref(スーダーン共和国.png,nolink); &size(10){▲スーダーン共和国国旗、現在でもクシテニアの共和主義者のシンボルとなっている。フランス国旗の影響を受けている。}; フランスの進んだ文化が流入し、クシテニアの変革の兆しとなった。 ***近代クシテニア [#fee2a51c] フランス・エジプト遠征軍の退却後もスーダーン共和国は続いた。イギリス軍がこのあたりの地を重視していなかったこともある。 &ref(スーダーン王国.png,nolink); &size(10){▲スーダーン王国国旗、ナポレオンの紋章が描かれている。ナポレオン派はナポレオン戦争後もクシテニアでは一定の勢力を持ち続けた。}; ナポレオンが皇帝に即位するとスーダーン共和国はスーダーン王国になったが、ドンゴラ王朝派のクーデターにより崩壊した。 しかしながら、古きドンゴラの専制を破ったナポレオンは少なからずの支持をクシテニア国内で得ていた。 ナポレオン支持者はフランス帝国崩壊後もしばらく残存した。 1805年、インドに待避していたロジェ5世は3歳の息子、アデマール2世を即位させクシテニア王国の再興を宣言した。 アデマール2世は都をカートゥームに移した。この時、それまで使っていた黒地にヌビア紋章という旗を廃し、彼は新しい国旗を制定している(国章はドンゴラ朝ローマ帝国のものを引き継いでいる)。 &ref(クシテニア現国旗.png,nolink); &size(10){▲クシテニア現国旗。青はナイル河と紅海を表し、白はキリスト教徒を表す。中央のエルサレム十字は十字軍における勝利の証であり、その上にヌビア王紋が描かれている。}; 彼は成人後にイギリス式の議会の開設し、軍の近代化、共和制下で行われた奴隷解放の承認、法典の整備を認めローマ帝国崩壊によって隔離されたクシテニアを再び国際社会に復帰させた。 彼は長寿としても知られ、ドンゴラ王朝最盛期の皇帝「アデマール」の名に恥じない生涯を送った。彼は1894年に89歳で崩御した。 この頃には議会主義が確立されており、現国王トマ6世陛下も立憲君主としてクシテニアを統治されている。 トマ6世は1859年に生まれたアデマール2世の最後の子であり、最初の男児であらせられた。 35歳で即位したトマ6世は第一次世界大戦に協商側として参加し、ウガンダ=ルワンダからドイツ植民地に進出し、自領とすることに成功した。 陛下は獲得したドイツ領のドイツ植民者を優遇し、国民として遇された。 だが陛下は後継者に恵まれず、皇太子だったロジェ殿下は生まれたばかりの娘を残して戦死なさってしまった。陛下は殿下を偲んで旧ドイツ領をロジェリアと改名された。 今年は1935年、トマ6世陛下は76歳という御長寿であらせられるが、老い故にうまく政務が執れていないご様子だ。 昨年、陛下は後継者問題で女子への相続を認める制度への移行をお認めになり、議会もそれを承認したが国教会がそれを認めない意向を示している。 また、外に目を向ければ隣国エチオピアに我が王家を差し置いてローマ帝国の後継者を僭称するイタリアが侵略を企てている。 エチオピア権益維持のためにエチオピア側で参戦を唱えるものもいれば、クシテニア・ナチ党のようにイタリアとの同盟によるエジプト侵攻を唱えるものもいる。 我ら国民は、国立博物館にあるヌビア王冠に恥じぬ選択をしたいものだ。 ''―クシテニア王国アデマール大帝大学歴史学科編「ヌビア・ローマ・クシテニア、我が王家の九百年」(1935年編)より'' &size(30){''完''}; [[暗黒の果てより]] TIME:"2016-03-02 (水) 19:53:19"