[[イルカの主]] *孤高王ゴーシュ1世(1178-) *孤高王ゴーシュ1世(1178-1198) 1178年、先代フィリップ1世の長男ゴーシュは5歳にしてブルゴーニュ王に即位をした。 人々は隣国フランスのような事態になることを恐れはしたが、新王誕生を祝った。 しかし、早くも人々の恐れていた事態が現実となる。 ゴーシュが即位した3年後の1181年、ブルゴーニュ公ジョフリーが反乱を起こしたのだ。 ジョフリーは王の実権が欲しかったために反乱を起こしたが、サヴォイ公マウグスや ゴーシュ1世の祖父にあたるベルン伯フィリップ2世の活躍のおかげで反乱を鎮圧させるのに成功し、 ジョフリーを一族から追放した。 この年、プロヴァンス公アンドレが66歳で死去する。 ドルフィン公ゴーシュの時代から四代に渡って家臣団の筆頭として国を支え続けた人物であったため 一族からだけでなく、民衆からもその死を惜しまれた。 空位となったプロヴァンス公の地位には、彼の長男であるフォルカルフィエ伯ギョームが即位した。 更に、マウグスの次男であるヴァライス伯オリバーもこの年に35歳という若さで他界する。 オリバーの長男であるレンドルが新しいヴァライス伯となった。 ---- だがギョームはプロヴァンス公になると今までの王家に対する態度を一変させる。 急に、王であるゴーシュに対して不遜な態度を取るようになったのだ。 さらに彼の弟で、父であるアンドレから最も信頼されていたサルレス伯ジェラルドが 1182年に亡くなると、自分の三男であるシモンをその後釜に据えた。 そしてブルゴーニュの反乱から2年たった1183年、ギョームは遂に反旗を翻し王家に宣戦布告をしたのだ。 この戦争は一族の中で最大規模を誇るアンドレ一族と王族の戦争となった。 しかし、この戦争でもサヴォイ公マウグスとベルン伯フィリップ2世がゴーシュ1世の味方となった。 彼らを味方につけたことは戦争を有利にした。 だが、ベルン伯フィリップ2世がこの戦争の最中に戦死したのだ。享年52歳であった。 孫であり、王であったゴーシュ1世はこの死をひどく嘆いた。 そして、新しいベルン伯にはフィリップ2世の長男ラウルが跡を継いだ。 しかしラウルは自分こそ王位にふさわしいと考えており、そのためかゴーシュ1世に対して敵対心を露にしていた。 その新しいベルン伯は勝手にプロヴァンス側と講和したのである。 それでも、ゴーシュ1世とマウグスの力はプロヴァンス公側を圧倒しており、彼らの領土を徐々に狭めていく。 そして、彼らの本拠地であるプロヴァンスの陥落によって彼らを一族から追放したのである。 これによりゴーシュ1世の名声は上がりこの国も安定すると思われたが、まだ片付けるべき相手がいた。 急にプロヴァンス公と講和を行い、ベルンに帰ったラウルである。 ---- 1185年、ベルン伯ラウルが挙兵した。もちろん相手はブルゴーニュ王ゴーシュ1世である。 だが、伯爵が王に敵うはずも無くベルン伯ラウルもまたゴーシュ1世によって一族から追放される。 これにより、一族は王族とサヴォイ公マウグスの一族のみとなった。 1187年、サヴォイ公マウグスが病に倒れ他界する。61歳であった。 その後継として、彼の孫であるジュネーブ伯エスタークがサヴォイ公となった。 だがエスタークもまた、ブルゴーニュ王の地位に即位しようとする野心家であった。 マウグスの死の翌年に当たる1188年、サヴォイ公エスタークもまたブルゴーニュ王ゴーシュ1世に対し戦を起こす。 ここでも、ゴーシュ1世は数で物を言う戦術で名将マウグスの孫達を撃破する。 そしてサヴォイ公エスタークとヴァライス伯レンドルを一族から追放し、一族はゴーシュ1世のみとなった。 この戦争によって全ての王国領土が王の直轄地となり、父親であるフィリップ1世から受け継いだ 卓越した統治能力によって無難に治めていた。 ---- 一方、隣国フランスではフランス王はもはや飾り物であり、いくつかの有力諸侯がそれぞれの地域を治めていた。 フランス北部にはフランドル公とシャンパーニュ公が、 フランス南部にはポワティエ公やアルマニャック公、トゥールーズ公といった諸侯たちである。 また彼らは、外国の大勢力と同盟を結ぶ事でそれぞれの安全を獲得し、 そしてその同盟国は旧フランス領への足がかりを模索していた。 スウェーデン王はフランドル公と、イングランド王はトゥールーズ公と、 神聖ローマ帝国はポワティエ公と、ブルターニュ公はアルマニャック公と同盟を結んでいた。 そんな中ブルゴーニュ王国にシャンパーニュ公が訪れ、同盟を申し入れたのである。 ゴーシュ1世は乗り気ではなかったが、旧フランス領での諸外国の侵略はブルゴーニュにとってもマイナスと判断し、 シャンパーニュ公と同盟を結んだのである。 ---- 1190年ゴーシュ1世はルクセンブルグからティブルゲを妻を迎える。その翌年には長男ギルバーが誕生した。 1194年、トゥールーズ公が他界した。その結果、彼らとイングランドの同盟が切れたのである。 これをラングトックを手に入れるチャンスとしたゴーシュ1世は彼らに宣戦布告をする。 後ろ盾を持たない彼らの力はブルゴーニュ王の足元にも及ばなかった。 ゴーシュ1世はこれによりモンペリエとジェバンダンを手に入れ、更にラングトック公の地位も得た。 ---- 1197年、ゴーシュ1世は病気にかかってしまう。 そしてその翌年1198年、ゴーシュ1世もまた、 祖父のレンドルや父のフィリップ1世と同様に若くしてこの世を去る結果となる。 このとき、ゴーシュ1世は25歳であった。 人々は彼を孤高王として讃える者もいれば、独善王として貶す者もいた。 そして、まだ7歳の彼の長男であるギルバーがブルゴーニュ王に即位することとなった。 ---- #ref(ドルフィン家系図1198.GIF) ---- #ref(1198.GIF) ----