*失意公ルードヴィッヒの治世 1152年、イタリアの同盟国トスカナ公国より救援要請の使者が訪れた。南に境を接するシエナ伯国に攻め込まれたというのである。 トスカナ公国はすでに十分な兵を動員しており、両国の力関係から我が国が手を貸すまでもないと思われた。 しかし、わざわざ使者をよこした手前、手ぶらで帰すわけにも行かない。マイセン公は同盟の約定にのっとり、シエナ伯国に宣戦を布告した。 ところがである。マイセン公がシエナ伯と戦争に入ると間もなく、同盟国のはずのトスカナ公国とその配下のパルマ伯国が、マイセン公国に対して公然と宣戦を布告したのだ。 シエナ伯国と戦うためと見せかけた兵の動員は、実はマイセン公国に向けられたものだったのである。 かくして、マイセン公国は一度に3つの敵を抱え込むことになった。新たなマイセン公にとって初めての試練である。 マイセン公は領内に動員令を発すると、守りの体勢に入った。遥かイタリア半島まで遠征しても得るものは少ない。むしろ、遠路はるばる行軍してきた敵を各個に迎え撃つ策を選んだのである。 ---- 翌年、まず現れたのはパルマ伯国軍である。敵軍はマイセンで守りを固める公国軍の前を悠々と通過すると、飛び地である故地ヴァイマールの攻囲を開始した。 これを見過ごすことの出来ないマイセン公は、野戦にて決着をつけることを決断した。兵力は双方とも1000人弱。互角の勝負である。 勝利の女神はマイセン公国に微笑んだ。叔父ベドリッヒ将軍の采配もさることながら、戦闘中にマンスフィールト卿フリーデベルトが見せた英雄的活躍(この部分は一度発狂と書いて消した跡がある)によるところが大きかった。 この一戦の後、パルマ伯国は多額の賠償金を払って講和した。 翌年、すっかり気を抜いていた我が軍の前に突如トスカナ公国の大軍が姿を現した。 兵の数は600対1200。戦力比は2倍である。 マイセン公国軍は数の差をものともせず勇敢に戦った。しかし、敵の数を半数まで討ち減らしたところで、先頭の兵が敗走を始めると、あとは雪崩を打って総崩れとなった。 ---- 当初、トスカナ公国軍は堅固なマイセン城を攻めあぐねていたが、翌年になってシエナ伯国を蹂躙した兵が到着し、兵力が2300人にまで増強されると、今度はマイセン側が一気に不利な体勢になった。 1155年春、マイセン落城。どこまでも狡猾なトスカナ公国は、公国の全財産と引き換えに講和を持ちかけてきた。事実上、パルマ伯国から得た賠償金をすべて差し出す形である。 マイセン公は自分の同盟国まで利用しようとするその態度に憤慨したが、首を縦に振るほかなかった。 1162年、マイセン公ルードヴィッヒは急死した。享年47歳。 これといった施策もなく、まさにトスカナ公国に翻弄された人生であった。領民は彼を失意公と呼んだ。 ルードヴィッヒの嫡子は女子しかおらず、男系相続の国法のもと、跡を継いだのは弟のカルロマンであった。このとき44歳。 彼は既婚者であったが夫人との間に子供はおらず、領民は公国の未来に暗雲が立ち込めるのを感じずにはいられなかった。 ---- ← [[ヴァイマール年代記]]