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**王位へ駆け上がれ [#w0bc22f7]

'''主の1375年。王ジョフリーはすべての戦場でノルドの軍勢を打ち破った。'''
'''そうしてクヌートリング家はすべての王位を失った。'''
(『ナコニド家年代記』)

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 ノルウェー=デンマーク王ゴットハルト・クヌートリング
 レイキャビークのベルトルドから数えて6代目

1350年8月、ノルウェー=デンマーク王ゴットハルトは
スコットランドに対して宣戦を布告しました。

新ノーフォーク公ギー・ド=クールソーユはこれに応じて北伐を決意。
イングランド各地から北伐軍が次々と出立する中、
サイモンはあえてスコットランド王の妹を後妻に迎えます。

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 エアドギト・オコナー スコットランド王エアルドレドの妹
 ゴトランド公女セシリア・ナコニドの孫にあたる

>「スコットランド王位にも手をかけようというのか」

世人のからかいにもサイモンは動じませぬ。
彼の目にはイングランド王位だけが見えておったのでござります。

主の1356年、ノーフォーク公ギーはアンジュー公国にも手を出します。
ノルウェー=デンマーク王はこれに応えて参戦し、敵の本拠地アンジューを確保。
一方ギー公はアンジュー公位をアンジュー家から奪い取り、
ここに英仏にまたがる大領が出現したのでござります。

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 1358年、ノーフォーク=アンジュー二重公国成立
 クヌートリング王家との間に確執のないド=クールソーユ家は
 積極的に同盟を活用し、ブリテンや大陸でノルウェー軍と共闘した

アルドウィン伯はこの事件にいたく興味を引かれたようでござりました。

>「サイモン叔父さま。みんなが言ってることほんとなの?
むかしのナコニド家はギーなんかよりもっと広い国を支配してたって」

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 サセックス伯アルドウィン トルキテル子息
 父母を失い、破門され、叔父サイモンの数々の凶行のため威信は地に落ちていた

>「それは本当のことです。
アルドウィンさまの御先祖はかつてノルドの過半を領するばかりか、
コンスタンティノープルの都まで治めたことがあったのですぞ」

>「ギーが死んだら、ぼくがイングランドの王になれるっていうのは?」

>「(その望みはないな。)破門が取り消されれば。
ゆくゆくはそういう事になりますかな」

>「ねえ叔父さま、ぼくが大人になったときのことだけど。
そしたら、ぼくはノルドにおける昔のナコニド家の権利を取り戻したい。
それができずに王として生き永らえるよりは、
ひとりの兵士として死んだほうがましだと思う」

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 1358年初頭、サセックス宮廷

翌1358年は不穏な空気とともに始まりました。
年末よりサセックス宮廷の廷臣に不審な死があいついでおったのでござります。
間諜を放って調べさせたところ、
ノリッジすなわちド=クールソーユ家からの刺客が暗躍しておる様子。
しかし密偵頭であるはずのサイモンは何ら有効な策を取ろうとはいたしませなんだ。

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 王なきイングランドではド=クールソーユ家の覇権も不確かなもの
 成人したギー公もやはり父と同じく内乱の危機に悩まされ、疑心暗鬼になっていた
 この肖像画は一度目の内乱の危機が終ったときのもの

8月、ド=クールソーユ家の魔の手はついにアルドウィン少年に及びます。
サイモンが部下の報告を受けたのは夜食の最中でござりました。

>「最後まで見届けたのか?」

>「は。確かに」

>「ド=クールソーユの刺客はなんと?」

>「『おのが主君が殺されるのを黙って見ておるばかりか、
あまつさえ殺しを手助けしようとは。貴様ら、地獄堕ちだぞ』などと」

>「もとより天の国には俺のための場所など用意されておらぬ。
御苦労、下がってよい。&br;
さてこれで俺はサセックス伯だ。
二人の兄とその妻を消し、俺より優れた廷臣をみな放逐し、
都合9度もギーの奴に刺客を差し向けて甥を殺させたかいがあったというもの」

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 第四代サセックス伯 サイモン・ナコニド

田舎領主の私生児として生まれたサイモン・ナコニド。
さまざまの策を弄し悪事に手を染めた結果、
ついにイングランド王位に手をかけるところまで来たのでござります。

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 1358年8月、ノーフォーク公位継承順(選挙法)
 継承順一位はエクセター伯ド=グレイストーク
 相続によりハンプシャーを得て一位に飛び出した

ノーフォーク公位継承戦にも返り咲きました。
代替わりで当主の破門宣告が取り除かれたため、
ペヴェンシー・ナコニド家が堂々の二位復活でござります。

>「十字軍でもなんでもよい。三つ目の州を保有しさえすれば、
ド=グレイストークを越えて継承順一位だ!」

そうしてサイモン伯は伯領の継承法を『サリカ法親族継承』に変更。
長きにわたったナコニド家の選挙法時代に終止符を打つとともに、
私生児サイモンの家系による支配を決定づけたのでござります。

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>「サイモン伯は私生児という逆境にも関わらずよくやっておられる!」

民は強き者を愛します。
サイモン伯の即位を祝うかのごとくサセックスの領民から上がる讃嘆の声に
彼は笑みを押さえきれぬのでござりました。


**1359年3月10日 [#n70413b8]

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1358年9月、サイモン伯はバールベック北方のアルカ土侯国に宣戦なさります。
先に申しましたように、これを取れば三領保有となり、
ハンプシャーのド=グレイストークを越えて公位継承一位になるわけでござります。

宮廷をシリアに移動して長期戦の構えでおったサイモン伯ですが、
どうにもいくさの具合がはかばかしゅうござりませぬ。

>「ダマスクス・ナコニド家の援軍はどうした?
同じ公臣、しかも隣国ゆえ期待しておったのだが」

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 ワヒド・ナコニド 第二代ダマスクス伯
 アーサーの長子

なんたる事でござりましょう。
ギー公の治世に反発したアーサーの息子ワヒドは
はるかシリアの地にて独立を果たしておったのでござります。
これでは黒金旗をかかげた援軍は参りませぬ。
サイモン伯は少ない手勢でアルカ包囲を強いられることになりました。

そうして1359年3月10日、
長引くアルカ包囲にいら立っておるサイモン伯の天幕へ
謎の知らせが届きます。

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>「我が主君、サセックス公ラウルの命令を伝える。
貴公の保有するバールベック伯位を引き渡すようにとの仰せ。
回答は?」

サセックス公? 何者だ?
なにかとてつもない事の起こっておるのが瞬時に解りました。
サイモン伯は急いでこれまでの経緯を調べさせます。

まず昨年の12月10日。
再び北伐に及んだノーフォーク公ギーはスコットランド王領チェスターを陥します。
これによってイングランド30州中20州を確保。
ギー公は即日王位を宣言します。

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 イングランド王ギー・ド=クールソーユ
 ほぼ200年ぶりにイングランドにノルマン双獅子旗が翻った

2日後、ギー王はケント、サセックスを所轄するサセックス公位を
ナコニド家に与えました。
しかしそれはサセックス伯サイモンのペヴェンシー家ではなく、
ケント伯ラウルの新ケント家に与えられたのでござります!

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#ref(raoul2.jpg,nolink)
 上:初代サセックス公、新ケント家のラウル
 優しく、恵み深く、穏やかな気性のラウルは
 サイモンにとって無性に腹の立つ相手だったに違いない
 下:1359年、イングランド王位継承順(選挙法)

いつのまにかペヴェンシー家は新ケント家の臣下にされておったばかりか、
ラウルめがイングランド王位第三継承者にのしあがるという有様。
一方、公位ばらまきからはずれたペヴェンシー家は
当然のように王位レースには加われませぬ。

目に見えるようでござります。

シリアの田舎をちまちまと攻めて
継承順を上げようと四苦八苦しておるサイモン伯を、
新生イングランドの王候らが指さして笑っておるのが。

サイモン伯は青筋を立てて怒鳴りました。

>「セントジョン卿、ここへ来い! 大至急ダマスクスへ行ってくれ。
ダーシー卿、何をぐずぐずしているのだ、ベイルートへの使いを忘れたのか?
兵を集めろ、すぐにでもいくさになるぞ!」

ラウル公の使者が口をはさみます。

>「御返事をうかがわせてくださいませ。
公にどう申し上げればよいか」

>「否、否、否!
辺土たりとも寄越しはしない!&br;
ラウルが安穏と暮らしておるあいだ、俺がどれだけの血で手を染めたと思っている?
王になろうという男だった俺だ。
いまさらあんな間抜けに臣従できるか!
これが駄賃だ、受け取れ!」

サイモン伯は臣下が止めに入るまで
ラウル公の使者を殴打し続けたということでござります。

ラウル公の反応は迅速でござりました。
すぐさま在シリアのサイモン伯を叛臣として宣戦。
これに応じてイングランド王ギーは
伯のおらぬサセックスへ王軍を差し向けたのでござります。

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 迫りくる王軍。圧倒的な兵力差を前に、
 サセックスの留守部隊500はフランスへ逃げるしかなかった

>「申し上げます! ハンプシャー伯ド=グレイストークが王軍に加わり
目下サセックスに向けて進撃しております」

>「申し上げます! サレー伯ド=オードリーが王軍に加わり……」

>「申し上げます! ヘイスティングスの騎士セントジョンと
イーストボーンの騎士ダーシーが叛逆、彼らは王軍に加わり……」

>「黙れ、黙れ、フクロウども! 死の歌しか歌えぬというのか?」

しかしサセックスの陥落は誰の目にも明らかでござりました。
留守部隊500は対岸のフランス王領ノルマンディーへ渡り、兵力を温存。
サイモン伯はシリアより主力1200を率いて急行します。

そうしてまさに海峡を押し渡らんとするサイモン伯のもとへ
今また新たな使者が到着いたしました。

>「申し上げます!」

>「もうよい。悪い知らせは聞き飽きた!」

>「しかしお伝えせねばなりません。
伯妃エアドギトさまがバールベック領を掌握し、独立を宣言。
サイモンさまの御子たち5人はエアドギトさまの手のうちに!」

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 バールベック女伯エアドギト
 彼女はバールベック領と子供たちをイングランド王軍から守るため、夫に叛逆した

>「無辜の人々を手にかけたサイモン、貴方はもはや地獄の業火をまぬがれますまい。
しかし子供たちに罪はない。わたしは命をかけても子供たちを護る」

バールベックを失ったサイモン伯には
もはや王軍包囲下にあるサセックスしか残されてはおりませなんだ。
ヘイスティングスに上陸したサイモン伯は王軍にむけて決死の突撃を行います。

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 1359年6月9日、ペヴェンシーの会戦
 サセックス軍1600vs王軍18500

>「旗を上げろ! 打ってかかれ!
聖ジョージ、汝の加護を、すさまじき竜の怒りをもたらしたまえ!
さあかかれ、かかれ、かかれ!」

#ref(event_battle.jpg,nolink)
 圧倒的な王軍を前にサイモン伯の軍勢は瞬時に消し飛んだという


**その後 [#w95fae1c]

かくしてイングランド王ギーはペヴェンシーの野で叛臣サイモンを打ち破り、
長らく続いておった内乱の時代を終らせたのでござりました。
そうして諸候の互選制であった王位継承を『準サリカ法長子継承』と定め、
ド=クールソーユ朝イングランドの輝かしき時代をひらいたのでござります。

それから16年後の1375年2月。
ギーの子ジョフリー・ド=クールソーユは
クヌートリング王家と戦ってデンマーク王位、ノルウェー王位を簒奪。
ノルドにおけるクヌートリングの時代を終らせるとともに、
北海を軸にブリテン、ノルド、ドイツ、フランスに広がる
史上空前の大帝国を作り上げたのでござります。

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#ref(geoffrey_decourseulles.jpg,nolink)
 第二代イングランド王にしてデンマーク、ノルウェー王
 超北海帝国の主ジョフリー・ド=クールソーユ
 /
 もとはと言えば、このノルド2王位請求権は
 ナコニド家がエストニア公時代に得たものであった

一方、サセックスの陥落とサイモン・ナコニドの死をもって
300年にわたるナコニド家の歴史は終わりを告げました。

しかし数々の分家が各地に根付いておりますし、
バールベック女伯エアドギトの子供たちが
サイモンの血を受け継いでおることもまた確か。
わたくしの話もまだあと少しだけ続くのでござります。

灯し火も暗うなってまいりました。
今宵はここまでにしとうござります……。


&br;
[[主の1422年。この年、王アイユーブは弟に妻を娶らせた(終章)]]
[[主の1422年。王アイユーブは弟の結婚を認め、これを祝福した(終章)]]

[[ナコニド家(リューベック)]]

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