[[ナコニド家(リューベック)]]/[[主の1190年。この年、教皇アンリは十字軍への参加を諸王に命じた(後編)>主の1190年。この年、教皇アンリは十字軍への参加を諸王に命じた(後編)]] **摂政アアムの改革 [#y983161d] '''主の1215年。この年、王ベルトルドがアイスランドから来た。''' '''そしてトロンヘイムの都に諸候を呼び集め、王に忠誠を誓うよう求めた。''' (『デーン年代記』) #ref(aamu_vonratzeburg.jpg,nolink) 尚書長アアム・フォン・ラッツェブルク ヴィボルグ伯アリカス・ナコニドの妻 >「かよわい苗であったエストニアは今はあまりに巨木となってしまいました。 このままでは総身に水が回らず立ち枯れるか、自らの重みで倒れてしまうでしょう。 思い切って枝の剪定を行わねばなりません」 主の1210年1月、レヴァルでの堅信礼を間近に控えられたユリウシュ公に対し 摂政アアムは次のように進言を行いました。 >「親政を始められるにあたり、 まず臣下の伯たちにお持ちの公位を分け与えなさいませ」 #ref(esthonia1209.jpg,nolink) 水色:王領その他 黄:エストニア直轄領 レヴァル宮廷 茶:エストニア封臣 >「『諸王の十字軍』このかたエストニアには封臣が増え過ぎました。 3年前のシェラン公国の崩壊でさらに封臣が増え、もはや限界と申せましょう。 彼らの忠誠を保つための手間や下賜金が公領の足かせとなっているのです」 >「わかりました叔母さま。 ……でも叔母さま、彼らはナコニドの支配を離れて ヴィルマンタス王のものになってしまいます!」 #ref(juliusz.jpg,nolink) オトカルの次男、慈しみ深きユリウシュ 第5代エストニア公 その所有する公位は11に及んだ アアムは眉を吊り上げました。 >「ユリウシュ、あなたは騎士として誰に忠誠を誓ったの? 王が直接動員できる兵力を増やしてさしあげることも ノルウェー=デンマーク王国筆頭貴族の務めですよ」 そうしてアアムはナコニド3分家のそれぞれを本家と同格の公として自立させ、 みずからの道を歩ませるように取り計らったのでござります。 #ref(allikas.jpg,nolink) #ref(duchyofkurland.jpg,nolink) クールラント・ナコニド家(旧ヴィボルグ分家) アリカス・ナコニド アアムはまず夫のアリカスにクールラント公位を与え、 レヴァルの都をはじめとするバルト対岸の諸領を支配させました。 公領のあちこちから不平の声が上がります。 いわく「身内贔屓だ」「公位の由来であるエストニアを手放すのか」などなど。 しかしアアムはいっこう気にしませなんだ。 >「アリカスは地元の文化で育てられたからちょうどいいと思っただけ。 それに彼の一統は武勇にすぐれているから、王国の前線を任せるのにぴったりでしょう」 #ref(mscislaw.jpg,nolink) #ref(duchyofuppland.jpg,nolink) ウプランド・ナコニド家(旧アンゲルマンランド分家) ムスチスラウ・ナコニド 私生児の一統であるアンゲルマンランド家にはウプランド公位が与えられました。 公位にはアドリアノープル司教領が付属してまいりますので、 ウプランド家はスウェーデン東岸とロマニアを支配することになります。 このアドリアノープル司教領は先の『諸王の十字軍』で目覚ましい発展を遂げたもので、 もとはオーランド諸島の一教区でござりました。 #ref(zdenek.jpg,nolink) ローガランド分家 ズデネク・ナコニド 1215年にようやくブランデンブルク司教領の跡地を与えられ、 メクレンブルク・ナコニド家として自立した ローガランド家だけはベルゲン近郊の田舎領主のままにしておかれました。 されど北海をのぞむローガランドの位置をかんがみまして、 ズデニクにはイングランドまたはドイツの所領が約束されたのでござります。 >「これで王の御為のみならず、 いざというとき一蓮托生にナコニドが滅んでしまうことも避けられるでしょう。 それから……」 #ref(branislav_vonratzeburg.jpg,nolink) #ref(duchyoffinland.jpg,nolink) フィンランド公(旧タヴァスト伯) ブラニスラフ・フォン・ラッツェブルク 1066年以来、6代にわたってナコニドに仕えたラッツェブルク家が ついに主君と同格のフィンランド公に任ぜられたのでござりました。 ラッツェブルクはアアムの実家でござりますから またも非難誹謗の雨あらし。 >「一帯をナコニドで埋めると近親婚が起こりやすくなりますからね。 それだけです」 #ref(valdemar_skjegge.jpg,nolink) #ref(archibishopricofsamogitia.jpg,nolink) サモギティア大司教(旧アドゲル司教) 色好みのヴァルデマール 1138年のセルジュク戦役で誕生したアドゲル司教領は、 数々の戦役を経てノルウェーの要地を領する大領へと発展いたしました。 現司教ヴァルデマールはなかなかのやり手という噂でござりますが、 なんでも聖職者にあるまじきことをやらかしたとかで評判のほうは……。 #ref(alain_ofmemel.jpg,nolink) #ref(archibishopricofsamogitia2.jpg,nolink) メーメル司教アラン 主君の動員にめったに応じないことで有名 占領したセルジュク臣領を私物化したあげく、 メーメル姓の隠し子だか親戚だかをイングランド中にばらまいた これに『諸王の十字軍』でさんざっぱら勝手をやったメーメル司教アランをくっつけて、 サモギティア大司教領として縁切りしてしまいます。 >「虫の好かない男だけど、王ならヴァルデマールを御することがお出来になるでしょう。 それにいつか彼か後継者が教皇に選出されたらそのまま王領になりますからね」 こうしてエストニア公領は五つの大きな枝を切り落とし、 北海とバルト海の要地を中心とするしなやかな若木の姿を取り戻したのでござります。 #ref(esthonia1210.jpg,nolink) 水色:王領その他 青:エストニアから独立した公領や大司教領(メクレンブルク公領は1215年成立) 黄:エストニア直轄領 リューベック宮廷 茶:エストニア封臣 摂政アアムの剪定、はたして吉と出ますやら凶と出ますやら……。 **リューベックの血浴 [#a440d97f] ヴィルマンタス王には御子がござりませんでした。 そこで数年前までは遠縁のベルトルド・クヌートリングが世継ぎでござりました。 ベルトルドはデンマーク王エーリクの遠い裔にて、 戦乱のノルドを離れてアイスランドで一家をなしておりましたものでござります。 #ref(berthold_knytling.jpg,nolink) #ref(bertholdfamilytree.jpg,nolink) レイキャビークのベルトルド アイスランドとカンパーニアの亡命クヌートリング同士の結婚で生まれた生粋の外地者だが、 王国諸候は三代ぶりの本家系クヌートリング復璧を期待した しかしフランスへ嫁いだ王の妹君オアヤさまに御子が生まれてからは、 事情が一変いたしました。 #ref(oaja_knytling.jpg,nolink) #ref(oajafamilytree.jpg,nolink) ヴィルマンタス王の妹オアヤ・クヌートリング フランス王臣ポワティエ伯バシール・アリに嫁いだことで一大波乱を巻き起こした ノルウェー=デンマーク王国では女子の子にも継承権が発生いたします。 すなわち、ウマル、フロレンス、ハビブと名付けられたアリ家の3人の御子たちが 突如として王位継承順の最上位を占めることとあいなったのでござります。 #ref(3alis.jpg,nolink) 人の生まれというもの、当人が左右できるものではござりませぬ。 真の信仰に浴しておるかぎり文化に貴賤というものもござりませぬ。 しかし王朝の姓が変わるとなれば話は別でござります。 1213年の冬、リューベックから南仏へと向かったノルド商人の一座のうちには いやに目つきの鋭い軽業師どもがまぎれこんでおったとのことにござります。 ほどなくして、ポワティエ伯妃オアヤ・クヌートリングと3人の御子たちが 城の広間の大梁に並んで吊るされた姿で発見されるという痛ましい事件が起きました。 柱にはナイフでこう刻まれてござりました。 >「異教徒に嫁いだ者の末路」 その手口の残虐さにフランス王国は震撼いたします。 >「いったい誰がこんなことを……」 「王国にはアラブが出世したことに反感を持つ人々がいる」 「ああ、オアヤさまが、そして子供たちがどんな罪を犯したというのでしょう!」 「改宗してもアラブはアラブというわけか……よろしい、ならば復讐だ!」 フランクとアラブの和解の象徴であったポワティエ伯領は 一転、民族間の怨嗟と軋轢のるつぼと化しました。 #ref(bashir_ali.jpg,nolink) ポワティエ伯バシール・アリ >「許さぬ! 決して許さぬ! こんなことをして、いったい誰が得をするというのだ!」 残されたバシール伯も手をこまねいて見ておったわけではござりませぬ。 密かに事件の背景を調べさせたバシール伯は ついにエストニア公がこれに関わっておることを突き止めました。 >「我々はノルドの王位などに興味はなかった! 理由なく家族を殺された者の苦しみ、エストニアはとくと味わうがよい!」 主の1214年2月15日夜、謝肉祭に沸きかえるリューベックのナコニド屋敷に 正体不明の黒衣の者どもが油のように滑らかに侵入し、 深夜課の鐘が鳴るまでに屋敷を退去いたしました。 #ref(event_town.jpg,nolink) 次の朝、宴のおこぼれをもらいにやってきた貧民どもは 静まり返った屋敷を前にして立ちほうけました。 屋敷の内にひとつとて生命はなく、中庭には人馬の死体から流れ出した血が くるぶしの深さまで溜まっておったとのことでござります。 これが世に言う『リューベックの血浴』でござります。 エストニア公ユリウシュや公弟ヤセントリイ、 摂政アアム・フォン・ラッツェブルクをはじめとする廷臣たちが皆殺しにされました。 たまたま領地へ里帰りしておった数名の臣のみがこれを生き延びたと伝えられております。 #ref(afterbloodbath.jpg,nolink) 『リューベックの血浴』後のエストニア公宮廷 わずかな数の地元騎士だけが虐殺をまぬがれることができた #ref(berthold2.jpg,nolink) ナコニド家は大きな犠牲を払った しかし主家クヌートリングの王位が守られたことは何物にも代え難い報償である **ゴーティエの帰還 [#dd613024] 『リューベックの血浴』はエストニア史上の一大惨事であるのみならず、 初めてナコニドが経験する本家の断絶でござりました。 皮肉なことに、この事件でがら空きになったエストニア公位を襲ったのは こういうときの用心のためにアアムが作らせたナコニド三公家の者ではなく、 30年も前に宮廷を追放されたひとりの風来坊だったのでござります。 >「ついにわしの時代が来た! わしの時代が!!」 #ref(gauthier.jpg,nolink) #ref(gauthierfamilytree.jpg,nolink) 遅咲きゴーティエ、第六代エストニア公 ポーランド王臣エステルゴム伯の宮廷で食客生活を送っていた 主の1214年3月、リューベックに新しい公がお着きになられました。 ゴーティエ・ナコニド、第四代オトカル公の兄君。 母君ドゥース・ド=モンフォールにフランク人として育てられたことが仇となり、 長いこと追放されておった御仁でござります。 >「諸国の宮廷を流れ流れて、数十年の冷や飯喰らい……。 だがこれからはわしの好きなようにやらせてもらうぞムハハハハ!!」 ずいぶんがらんとしてしもうたリューベックの館に ゴーティエ公のだみ声が響きます。 >「まずは妃だな。わしには美しく賢い妃が必要だ!」 **アルメニアの微笑 [#o2c18e60] #ref(duchyofsze.jpg,nolink) #ref(borkalansisters.jpg,nolink) 上:アルメニア時代のセーケシュフェヘルバル公国 下:ボルカラーン四姉妹 左からクニグンダ、イレーネ、ピロシュカ、ユーディト ボルカラーンは政争で領地を追われ、 ウトラメールへ渡ったハンガリー系の十字軍士でござります。 アルメニアの古都アニに屯するベーラ・ボルカラーンには 美貌と才知にすぐれた四人の娘御がござりました。 中でも三女ピロシュカは当代随一の麗人であるばかりか、 その知謀にかなう者ウトラメールにはおらなんだと伝えられてござります。 #ref(piroska_borkalan.jpg,nolink) 「アルメニアの微笑」 ピロシュカ・ボルカラーン 数々の騎士が彼女のために武勲を誓ったという そのピロシュカをめとった幸運な男は誰でござりましたでしょうか? 父ベーラの主君にあたります、ミエシュコ・ヤーク公でござります。 どちらも若く、お互いを慈しみあう良き御夫婦でござりましたそうな。 #ref(mieszko_jak.jpg,nolink) #ref(duchyofsze2.jpg,nolink) セーケシュフェヘルバル公ミエシュコ・ヤーク ポーランド王に臣従し、プロシアへ移ったセーケシュフェヘルバル公領 されどセルジュクの猛攻こらえがたく、アルメニアは陥ち果て、 セーケシュフェヘルバル公家はほうほうの体でプロシアへと引き上げてまいりました。 ミエシュコ公もアニの陥落時に深手を負われました。 そう長くはござりませんでしょう……。 >「あのピロシュカがプロシアにおるとな。まことか!」 以前よりゴーティエ公はピロシュカにずいぶん御執心の様子でござりました。 同じポーランド諸候の廷臣として顔をあわせたことがござりましたか、 でなくば諸国を遍歴しておった際に見初めたのでござりましょう。 ミエシュコ公が亡くなられたことがお耳に入りますと、 >「なぜもっと早く知らせなかった!」 と尚書長を怒鳴りつけられ、 いそいそと出立の準備をお命じになるのでござりました。 >「ピロシュカ、わしはそなたの事をずっと思うておった。 あの間抜け面のミエシュコがそなたを娶ったときは心底悔しかったよ。 何度ミエシュコの野郎を闇に葬ってやろうと思ったことか! だがエステルゴム伯の一食客のわしは指をくわえて見ておることしかできなかった。&br; 今は違う。ノルウェー=デンマーク王国最大最強の公として、 夫を亡くされた前セーケシュフェヘルバル公妃をわが宮廷にお迎えするのだからな! まず断られることはあるまい……くく……」 ゴーティエのもくろみは図に当たりました。 ピロシュカの主君であるポーランド王は御結婚をお認めになり、 彼女は粛々とリューベックへ嫁いだのでござります。 **夢見るゴーティエ [#f831b76f] あまり良い評判の聞かれませぬゴーティエ公でござりますが、 気前だけはよかったそうでござります。 鋼鉄教皇アンリが遂に倒れなさると、ソールズベリで行われた枢機卿会議は アンリの後任にオクシタン人のロルフ・ダルブレットを指名いたしました。 #ref(raolf_dalbret.jpg,nolink) 新教皇ロルフ ロルフ・ダルブレットはもとエストニア公臣ブランデンブルク司教でござります。 ボヘミアとドイツを中心とする旧司教領8州が まるごとゴーティエの懐に転がり込んでまいりました。 >「わしはドイツなんぞに興味はない。 約束通りズデネクの阿呆にくれてやるから、 せいぜい仲良くトルコ人と殴り合っておれ」 #ref(duchyofmecklenburg.jpg,nolink) メクレンブルク・ナコニド家(旧ローガランド分家) そう言って、ぽんと投げ出すようにして旧司教領とメクレンブルク公位を 甥のズデニクに与えてしもうたのでござります。 >「ピロシュカ、わしには夢があるのだ」 ゴーティエ公は機嫌の良いとき、 強い麦酒を飲みながらそうお話しになるのでござりました。 それは幼い頃に母君ドゥースが語ったというド=モンフォール家のことでござります。 >「セルジュクどもがやってきて以来、イングランドには王がおらぬ。 由緒あるノルマンディーの一族ド=モンフォールは イングランドに再び王権を打ち立てることを望みとしておった……」 #ref(england1216.jpg,nolink) 王なきイングランドでは、スコットランド、ノルウェー、ドイツが睨み合っていた ピロシュカはにこにこしております。 >「家臣どもはしきりに『クヌートリング家への忠誠が』などとぬかしおる。 だが、わしはフランク人だ! ヴェンド貴族の依怙地な伝統など知らぬ!&br; ド=モンフォールの息子であり、ノーフォーク公でもあるこのわしが なぜにイングランド王位を狙って悪いわけがあろうか?」 ゴーティエ公は目を輝かせて未来を語ります。 その父親くらいの歳の男の横顔を、 ピロシュカは太陽のごとき微笑みを浮かべて眺めておるのでござりました。 #ref(event_agriculture.jpg,nolink) 主の1216年秋、それは好天続きの素晴しい秋でござりましたが、 ゴーティエ公はひどい風邪をお引きになり、 あれよあれよという間に亡くなられてしまいました。 お妃の部屋で、窓を開け放したまま、 すっ裸で酔って寝込んでしまわれたという話でござります。 いくらなんでも無謀にすぎる、馬鹿じゃないのか、 これは怪しい、いやこれはお妃がと言い張る者もおりましたが……。 ともかく、たった二年と半の御治世でござりました。 公妃ピロシュカとのあいだに御子を為されることもござりませんでした。 リューベックの人々は「これも聖霊のお導きか」とささやきましたが、 先に不安がないわけではござりませぬ。 >「リヴォニアからゴーティエの息子がやってくるそうな」 またその息子というのが、めっぽう冷酷な男だという噂でござりました。 &br; 灯し火もずいぶん暗うなってまいりました。 今宵はここまでにしとうござります……。 &br; [[主の1230年]] [[主の1228年。この年、王ベルトルドはスケグネスの浜辺で大敗を喫した]] [[ナコニド家(リューベック)]]