[[ナコニド家(リューベック)]]/[[主の1093年。この年、王エルンストは艦隊を率いてバルト海を渡った>主の1093年。この年、王エルンストは艦隊を率いてバルト海を渡った]] **ヴェンドの野あざみ [#n54062f3] '''主の1136年。この年、王エーリクは海岸でトルコ人の大軍を迎え撃った。''' '''そこで非常に多くの者が、デーン人もトルコ人も、落命した。'''(『デーン年代記』) #ref(roza.jpg,nolink) 「ヴェンドの野あざみ」 ローザ・バイルト >「ローザ、おまえはヴェンド人なのですから」 母御はローザにそうおっしゃったのでござります。 >「リューベック宮廷はデーンかぶれでいっぱいです。 決しておまえは呑み込まれてはなりませんよ」 #ref(familytree1136a.jpg,nolink) ローザはヴェンド人の母親とスコットランド人の父親のあいだに生まれた ローザの母御ヤルミラ・ナコニドはかの叛逆者サンボルの娘でござります。 父が身まかったのち、リューベックに流れてまいりましたヤルミラは 当地でスコットランドの騎士バイルトと一緒になりました。 国を失った者同士、感じるところがあったのやも知れませぬ。 とても宮廷に顔を出せる身分ではござりませぬ。 二人はリューベック上流の森をひらき、畑地をつくり、羊を飼い、 必要なものはほとんどみな自分たちでこしらえる生活を送ったのでござります。 #ref(event_agriculture2.jpg,nolink) こういう家の子供たちはたくましく育ちます。 長女ローザはとくに金勘定に長けてまいりました。 ある日、追うてきた羊の群れを町の大市で売りさばいておりましたローザを、 通りがかった貴族の御夫婦が目にとめられました。 >「なんと美しいむすめ。これなら我が君も!」 #ref(waclaw.jpg,nolink) タヴァスト伯バーツラフ・フォン・ラッツェブルク 代々の重臣ラッツェブルク家はその功績によりフィンランドの領地を任された 「我が君」とおっしゃるのは当代のエストニア公のこと。 ハルデクヌート公は20代も半ばを過ぎたと申しますのに、 いまだ嫁御をお取りにならず、いくさばかりなさっておられるのでござります。 先年からは王に従ってトルコ人征伐までお始めになる有様。 家臣たちはいささか気がせいてまいりました。 >「美しいだけではありません。ごらんなさい、あの堂々たる交渉ぶりを。 きっと彼女は宮廷でよい仕事をするでしょう」 #ref(gudrun.jpg,nolink) 稀代の名尚書グドゥルン・ナコニド オックスフォード分家が断絶したあとリューベックへ移る ラッツェブルク家に嫁入りしたが、そのままリューベック宮廷で公に仕えた ローザをリューベック宮廷に伺候させるようバイルト家に申し付けがござりましたのは、 その月が終わらぬうちのことでござります。 >「ぜひとも花嫁に、と考えておいでだ」 一領民であるバイルト家には否も応もござりませぬ。 せいいっぱいの贅をつくして花嫁御寮を送り出しました。 >「殿はやっと妻御を娶るおつもりらしい」 「だが、お相手はあの叛逆者サンボルの孫娘らしいぞ?」 「しかも野育ちのヴェンド娘だっていうじゃないか。いったい何を考えておられる!?」 しかしローザが宮廷入りいたしますと、その才覚が誰の目にも明らかとなりました。 頭が回る、根気がある、人当たりも悪からず。 試しに金勘定をやらせてみますれば、群を抜く腕前。 たった一人のヴェンドの田舎娘に「デーンかぶれ」たちの誰もかないませぬ。 バーツラフとグドゥルンは太鼓判を押しました。 >「公妃さまにおかれましては、ぜひ家宰の職に就いて頂きたく。 ラッツェブルク家がお支えいたします」 そうしてローザ・バイルトは妃としてのみならず、 家宰として公家を切り盛りしてゆくことになったのでござります。 人は彼女のことを「ヴェンドの野あざみ」と呼んで親しみ、 または卑しんだり敬遠したりしたのでござりました。 **好きなものは妻よりいくさ [#o2da6454] #ref(hardeknud.jpg,nolink) #ref(familytree1136b.jpg,nolink) 第二代エストニア公ハルデクヌート 前アンゲルマンランド伯 父マルテの死後、公領の支配権をめぐって兄たちと骨肉の争いを繰り広げた 夫君、ハルデクヌート公はなかなか難しい性格でいらっしゃいました。 信心が篤い一方、こうと決めたら聞かず、常に何かに怯えていらっしゃる御様子。 これで戦に長けてらっしゃるものですから、封臣は気が気でござりませなんだ。 少しでもおのれに刃向かうような者にはかならず兵を差し向け、 封土を取り上げ、一族郎党他国へ追い散らしておしまいになるのでござります。 #ref(jens.jpg,nolink) 長男イェンス 前フィンランド伯 追放され、家族とともにヴォルガ・クヌートリング3伯領へ亡命後、死亡 #ref(inge.jpg,nolink) 次男インゲ 前ナイランド伯 追放され、家族とともにシェラン公宮廷へ亡命 #ref(olver.jpg,nolink) 三男オルヴェル 前クールラント伯 追放され、その途上死亡。家族はシュレスヴィヒ公宮廷で庇護された 追放され、その途上死亡。家族はスレースヴィ公宮廷で庇護された #ref(esthonia1136.jpg,nolink) エストニア公領、1136年 ハルデクヌートは3人の兄を領国から追放し、かわってオーランド司教(白)に大きな力を与えた アンゲルマン伯アシルドは故マルテの妻、継承者はイェンスの長子ハーフダン 兄弟争いの混乱が続きますなか、 今度はデンマーク王エーリクの要請に応じて4000名を王軍へ供出し、 御自身も3000名を率いてトルコ人との戦いにお出かけになってしまわれました。 たまに帰っていらしても、ろくに妻に会いにもいらっしゃいませなんだ。 もちろん子供など生まれるわけがござりませぬ。 ローザが嫁入りしてから2年が経とうとしておりました。 >「何考えてんのか分からない……変な人のところに嫁いでしまった」 家宰としての不満もござります。 兵への給金を半分に押さえても、毎月48万マルクが飛んでゆくありさま。 実入りが30万かそこらでございますから、いくさが長引けばかなり家計に響きます。 ところがこのたびのいくさはデンマークとセルジュクという大国同士のいくさ。 いつ終わるか分かったものではござりませぬ。 >「兵だけ出して王陛下の指揮にまかせておけばいいのに。 どうしてそんなにいくさが好きなの?」 ローザは苛立たしげなため息をつきました。 #ref(selcukwar1138.jpg,nolink) エストニア公軍(黄)は主攻の王軍・シェラン公軍(赤)の両翼で助攻の役割を務めた 1138年秋、セルジュク王はテレマークの会戦で大敗を喫しました。 されど、まるで遊牧するように次々と宮廷を移してゆく とらえどころのないセルジュク族でござります。 この「セルジュクの遊牧」に対してエーリク王は策を講じておいででした。 -臣下の小領主を先に潰す -セルジュク本隊に決戦を挑み、勝利する -北ヨーロッパの領土を失ったセルジュクが宮廷を本土に戻す -以後、来航する敵を迎撃し続け、領土の獲得あるいは獲得の継続を許さない -戦果を累積させ和平 テレマークの戦いののち、この策が当たったかに見えました。 ノルドの地のいずこにもかのにっくき白鷲旗は見当たりませぬ。 が、なんということでござりましょう。 セルジュク王は北の孤島フェローに遷座し、さかんに本国へ伝令船を飛ばしておったのでござります! #ref(gagik.jpg,nolink) 回教徒の王、アルメニア人ガジク・セルジュク その軍勢はバルカン半島や地中海において猖獗をきわめたが、猛きデーン人には敗退した >「何をしていたエストニア公! 貴君の目は節穴か!」 #ref(erik.jpg,nolink) クヌートの裔、デンマーク王エーリク スヴェン王の直系4代目 ノルウェー方面の小領主討伐を担当していたハルデクヌート公に 王の激しい叱責が飛びました。 急遽、艦隊を仕立ててフェロー諸島へ向かうハルデクヌート公ですが……。 #ref(faereyar.jpg,nolink) フェロー諸島を包囲中、あと数日で陥落というところでペルシア本国からの増援2800が到着。 エストニア公軍600名は全滅したとの知らせが聞こえてまいりました。 >「もう生きてはいらっしゃいますまい……」 「公位はヴォルガにいるイェンスの息子たちのものになりましょう」 「先公と懇意にしておった者は報復に気をつけるがよいぞ!」 #ref(volga3counts.jpg,nolink) クヌートリング家のヴォルガ3伯領 1110年代のスウェーデン奪還十字軍の際、王のヴォルガ方面軍がセルジュクから奪ったもの 公位継承権を持つイェンス・ナコニドの息子たちがここへ亡命していた ところがその年の終わり、 みながイェンスの息子たちのリューベック入城を待ち構えておりました頃。 よれよれになったハルデクヌート公がノルウェーの港に生きて帰って来られたという知らせが リューベックに届いたのでござります。 それを聞いてローザはなんとなくほっとしたような、 なんとなくがっかりしたような心地になったのでござりました。 **たくらみの季節 [#z8e7ff0c] 帰ってからのハルデクヌート公は気が抜けたようになってしまわれました。 ヴェスターゴトランドやノルウェーの海岸線では、 やがて到来いたしましたセルジュクの第二派と王軍が激しい戦いを繰り広げておりました。 されど、公は王からの要請に兵を差し出すだけ。 もはや自ら率いて出ようとはなさいませなんだ。 かわって盛んに燃え上がりましたのが公の信仰心でござります。 領内に3つもの司教領を創設なさり、その名はいやが上にも高まりました。 #ref(esthonia1146.jpg,nolink) 1140年代のエストニア公領、および4司教領(灰)、3親族領(赤)、1家臣領(黒) その領土構成を大きく教会寄りに変化させた 3つの親族領はいずれも傍系(従兄弟ハーフダン、伯父ハリク、従姉妹インゲゲルド) 「これも君主の務め」と、子作りに励まれるようにもなりました。 もちろんそこに愛情はござりませぬ。 公妃ローザは3人の男児と3人の女児を生み、ようやく夫君から解放されました。 さて、ひとつの危うい考えがローザの心に根付き始めたのは おそらくはこの頃でござりましたでしょうか。 >「息子をヴェンド人として育てたい」 マルテ公以来、ナコニド本家はデーン文化にどっぷり浸かってまいりました。 見回してみますれば「デーンかぶれ」だらけでござります。 #ref(familytree1146.jpg,nolink) デーンの血とヴェンドの血がせめぎあう これに対して叛逆者サンボルの血筋が ヴェンドの血を頑なに伝えてまいったことをご想起くださいませ。 ローザ・バイルトはヴェンド人なのでござります。 デンマークへの憧れもクヌートリング王家への特別な感情も持ち合わせぬローザは、 おのれの立場と血を利用し、 エストニア公家をヴェンドの手で奪い取ろうと決意したのでござりました。 #ref(bartosz.jpg,nolink) 次男バルトシュ ハルデクヌートの子供たちのなかで、ただ一人ヴェンド人として育てられた 王の戦争が終わりました頃、 ローザのたくらみは一人の男児となって結実いたしました。 ハルデクヌートの次男バルトシュはノルド語より先にヴェンド語を覚え、 長ずるにつれ西スラブの風習に親しむようになって参ったのでござります。 これもヴェンドの血を伝える重臣ラッツェブルクは 公妃のたくらみをいさめるどころか、陰に陽に助けさえいたしました。 >「さいわいハルデクヌート公ご自身の手によって、 デーン系ナコニドの多くが異国へ放逐され、断絶しております。 残る3親族領をいずれかの時点で」 >「ラッツェブルク。みなまで言ってはなりません。 すべては主の御心のままに、時がその命ぜられたことを執り行うでしょう……」 公妃にして家宰、叛逆者の孫娘ローザ・バイルトは厳しい口調でそう言ったあと、 すぐに母親の笑顔となって、腕に抱いた我が子をあやすのでござりました。 &br; 灯し火もずいぶん暗うなってまいりました。 今宵はここまでにしとうござります……。 &br; [[主の1159年。この年、王子ハルザクヌートはデーン人の王となった>主の1159年。この年、王子ハルザクヌートはデーン人の王となった]] [[ナコニド家(リューベック)]]