[[ナコニド家(リューベック)]]/[[主の1066年。この年、王スヴェンは娘をヴェンド人に与えた>主の1066年。この年、王スヴェンは娘をヴェンド人に与えた]]

**継承者たち [#x9535a03]

'''主の1093年。この年、王エルンストは艦隊を率いてバルト海を渡った。'''
'''そして蛮族の王たちを放逐してその領土をわがものとした。'''(『デーン年代記』)

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>「嘘! 嘘! 嘘とおっしゃい!」

侍女が泣き騒ぐイングリッドを後ろから抱え、居室へと連れてゆくのでござりました。

1093年のことでござります。
わずか4年前にブラニスラフ伯を病で失ったばかりのリューベック宮廷は、
今またその主を亡くした悲しみに深く沈んでおりました。
エストニア戦役のさなか、武勇で知られたマレク伯が命を落とされました。
ナコニド家は父親、三男に続いて長男をも失ったのでござります。

マレク伯は自死したらしい……。
そんなうわさが戦地から伝わってまいりますと、宮廷の雰囲気はさらに不穏になりました。
キリスト教徒最大の罪、自死。
改宗まもないナコニド家にとって、決してあってはならぬ醜聞でござります。

>「母上。とにかくお体をお休めになってください」

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 次男マルテ
 初代エストニア侯としてナコニド家を一躍有力諸侯の座にのしあげる
 初代エストニア公としてナコニド家を一躍有力諸侯の座にのしあげる

次男マルテの勧めもござりまして、
イングリッドは長らく務めていたナコニドの家宰職を辞して居室にこもったのでござります。

>「いかがいたす、兄上」

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 四男サンボル
 将来、エストニアの民は彼を圧制者として憎むことになる

マルテは油断ならぬといった目つきで弟を見ます。
父が死んでから生まれたサンボルはわがままに育ち、
その傍若無人ぶりには宮廷のみなが辟易しておりました。

>「もちろん有能な俺がナコニドを継ぐのだろうな。兄上?」

>「黙れ! おまえにはエストニアをやる。それでちょうど半分ずつだ。
ただし公号は俺がもらうからな」

>「偉そうに!」

つかみあいになったところにスタニスラバが割って入ります。

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 次女スタニスラバ。家臣アッセルに嫁ぐ

>「おやめなさい! なんて情けない……」

スタニスラバは兄たちに対する不快を隠そうともしませなんだ。
病める母を気遣うのもほどほどに、
もう兄たちの胸の内は領地や称号のことで一杯なのでござりました。

>「母様の面倒はわたしとアッセルが見ます。
兄様たちは、とにかくあの忌まわしい戦役をおしまいになさって!」

スタニスラバに言われるまでもなく、
ナコニドの男たちは戦争をさっさと終わらせるつもりでござりました。
伯領初の本格的十字軍となるエストニア戦役は、いま大詰めを迎えております。

新参のナコニド家にとって、「公」の称号は喉から手が出るほど欲しいもの。
だがデンマークとドイツに挟まれたリューベックの位置ではそんな望みもかないませぬ。
残る可能性は十字軍による公号の取得でござります。
バルト方面では先に述べたエストニアがたった2領で公号を得られるのでござりました。
ナコニド家はこれを狙います。

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まずはバルト海深部を扼するオーゼル島を獲り、ここを足がかりにいたします。

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主力である王軍や諸侯軍がリヴォニア・リトアニア深部へ攻め入った隙に、
エストニアのレヴァル、ナルヴァ2領をかすめとるという目算でござります。
されど……。

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 クヌートの裔なる、スレースヴィ侯ウッベ

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 『シェランの豚』 フヴィデ家のシェラン侯スキャルム

王国の有力諸侯たちの軍勢がリヴォニア沿岸に続々と到着してまいります。
一刻も猶予なりませぬ。
リューベック軍はオーゼル島を後回しにして直接レヴァルへ上陸いたします。

>「後から来た連中に渡すものか! エストニアはナコニドのものだ!」

マルテ伯とサンボルに率いられたリューベック軍は
異様な熱気をもって進軍し、突破し、殺戮し、
静まりかえったエストニアの地を劫略し尽くすのでござりました……。

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 主の1102年、エストニア公領成立す
 マルテは公号とリューベック、オーゼル島を、サンボルはエストニア2領を取った


**自治都市リューベック [#kb75c1ee]

エストニア公マルテの治世のもと、
バルト海の寒村でござりましたリューベックは次第に大きく育ち始めておりました。

''大衆法''
マルテ公は封建法を廃され、大衆法を発布なさいました。
ウルビノ、ボローニャ、ミラノといったイタリア都市の法を先例といたしたものでござります。
裁判所や逓信所を設置し、また都市商人に大幅な自治を認めましたことで、
リューベックはバルト海へ船出する商人どもの集合地となったのでござります。

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 移住してきたドイツ商人・デーン商人たち

大衆法を発布いたしますと農民や都市民への税率が減免されます。
もっとも重い税でも五割まで。
これは公にとって大きな足かせにござります。

そこでマルテ公は他国商人どものために商館Commerce Institutionsを整備し、
地元商人のためには定期市と交易路Fairs and routes それから商慣行Trade Practicesを
他国商人たち、特にフランドルの商人から学ぶようお命じになりました。

また動力Power、工芸Handicraft、鉱業Miningなどを学ぶため、
たくさんのドイツ人たちを宮廷にお呼び寄せになりました。

これら商工6技術を重点的に研究することで分け合うパイそのものの増大をはかり、
税率は低くとも大きな収益を、かつ安定した収益を得られるようにしたいというのが
マルテ公のお考えでござりました。

''軍備''
大衆法の布告により、自治都市が拠出する弓兵とパイク兵が公軍の中核となりました。
重代の騎士は引き続き招集されておりますがその数は減じ、
農奴兵の招集に至ってはほとんど行われぬようになりました。

当時の平均的な拠出兵数は
リューベック:1800名
オーゼル:600名
といったところでござりましょうか。

エストニア公軍の戦い方もずいぶん変わりました。
まず、弓兵の圧倒的火力投射によって出会い鼻に敵の戦意を大きく削ぐことから始まります。
ついで方陣を組んだパイク兵が突進いたしまして、敵の戦意を崩壊させます。
そうして即座に敵軍を追撃し、敵の戦意を回復させないまま戦勝を重ねるのでござります。

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 都市はよく訓練された弓兵集団をその自衛のために雇用していた

この戦法をさらに有効にするため、
弓Bows、弩弓Crossbows、皮鎧Leather Armour、
棹状兵器Piercing Weaponsといった兵器だけでなく
防御戦術Defensive Tactics(特に3:Missile Barrage 4:Drilled Pike Men)
をドイツ人から学ぶよう、マルテ公はお命じになったのでござりました。


**兄弟争い [#wdef00d2]
領を分け合ってから10年もいたしますと、主君である兄マルテのまつりごとは
レヴァル伯サンボルには次第に耐えがたいものになってまいりました。

まず、マルテ公は国法を封建法から大衆法へと切り替えたことを理由として
月額2.9万マルクもの上納金を弟君にお課しになられました。
これをお払いになるためにサンボル伯は圧政を敷かれ、
それがためエストニアでは内乱が頻発したのでござります。

第二に、リューベック宮廷ではヴェンド人としての出自を恥じる風潮が強まりました。
スラブの風習を隠し、デンマーク文化を積極的に取り入れるようになったのでござります。

最後に、教会献金をしぶったためにマルテ公は教皇猊下から破門されなさりました。
これは聖職者教育を受けたサンボル伯にとっては信じられぬ恥辱でござります。

>「マルテ叔父なんかより、あなたのほうが侯にふさわしかったわ」

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 レヴァル伯妃スビニスラバ。オックスフォード・ナコニド家の娘
 マルテの姉である母親と同姓同名で、容姿も瓜二つであった

伯妃スビニスラバはサンボル伯が常々思っていた事をはっきり口にいたします。
彼女はイングランド育ちながらヴェンド人として教育を受けた生粋のナコニドでござります。
リューベック宮廷のデーン化政策にいらだちを覚えたとしても不思議はありますまい。

>「実は、また兄が兵の提供を求めてきている。
スウェーデン王の弔い合戦はまだ終わっていないと」

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 欧州中を遊牧して回るかのごときセルジュク族(アルメニア系ムスリム)は
 1110年、ついにスウェーデン王国を滅亡させてしまった

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 1115年、あまりに遅すぎたデンマークの介入の結果、
 スウェーデンとフィンランドの主要部がデンマーク王領または諸候領となる
 /
 ここには王国を支える四大諸候の勢力図を掲げた
 スウェーデン内陸部に勢力を広げるシェラン公、バルト海要部を押さえるエストニア公に注目

>「馬鹿じゃないの!?
どうせマルテ叔父は自分の息子たちにやる領土が欲しいだけよ。
あなたが兵を出して攻め取ったフィンランドがそうなってるようにね!」

>「お前もそう思うか。実は断ろうと思っている」

>「断りなさい! いえ、いっそ独立しなさい!
エストニアを支配する者だけがエストニア公を名乗ることができるのよ!」

妻の強い勧めにサンボル伯は力づけられたようでござりました。

1116年、マルテ公のたびかさなる出兵要求に
ついにサンボル伯は拒否の返事を送り、兵を招集いたしました。
「サンボルの乱」でござります。

ほどなくしてフィンランド、クールラント、ゴトランドから公軍が殺到してまいります。
レヴァルもナルヴァもすぐに陥落いたしました。
サンボル伯は全財産を差し出しましたが認められず、
領土とリューベック請求権を手放すことでようやく一族の生命を安堵されたのでござります。

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 1119年、「サンボルの乱」後のエストニア公領
 リューベックを中心として、バルト海のすみずみにまでナコニド家のネットワークが張り巡らされた
 公領の収入と従属伯からの税の合計は月額17万マルクに及ぶ

>「まるで待っていたかのように兄の軍勢は攻めてきた。
……はめられたか!」

行き先の知れぬ流浪の旅を続けながら、
サンボルは己の浅はかさにただ怒りを覚えるのでした。
そうするうちに、妻の実家オックスフォードが
レヴァル・ナコニド家を受け入れてくれるという話が出ます。

>「寒く貧しい異郷での生活に倦んだ妻が、兄と結託して俺をはめ、
実家のあるオックスフォードに戻ろうとしたのではないか?」

妻さえ信じられぬようになった、恨みがましい敗者の繰り言と分かってはおります。
しかしサンボルは、上機嫌な妻の横顔を疑わしげに眺めずにはおれないのでござりました。

主の1121年、オックスフォード公の食客サンボル・ナコニドは気鬱のうちに身まかりました。
43歳でござりました。

殺戮者、圧制者、叛逆者としてのみその名を伝えるサンボル伯でござりますが、
はたしてそのような割り切った見方で済ませてしまってよいものやら……。
ともかく、世に「ナコニドの悪しき習い」とまで呼ばれた肉親争いは
この代より始まったのでござりました。

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灯し火もずいぶん暗うなってまいりました。
今宵はここまでにしとうござります……。

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[[主の1136年。この年、王エーリクは海岸でトルコ人の大軍を迎え撃った>主の1136年。この年、王エーリクは海岸でトルコ人の大軍を迎え撃った]]

[[ナコニド家(リューベック)]]

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