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*ルイ7世の時代 1209-1229 威信1562 信仰875
死の直前に彼の父である偉大なルイが打ち明けたのは、ローマ法王の称号を保持しながらローマ皇帝の位に就くことである。カペー家の権力の前では不可能が可能となる。父王ルイの死後即座にフランス王国の軍隊をローマに迎え入れた彼はローマ皇帝就任を宣言したのである。膨大な軍隊の前では全てが無力であった。こうして法王の三重冠と皇帝の冠を持つルイ7世が誕生したのである。
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即位したとき既に彼は52歳であった。神に仕える身としてルイは独身であり当然子供は居なかった。そこで彼は妻を娶ることと成る。ローマ法王としてではなくローマ皇帝として彼はアラブ出身の女性と結婚することとなった。
ローマで皇帝に即位した直後十字軍の派遣が決定された。もちろん彼自らが軍を率いていくことと成る。目的地は中東。かの地をローマ帝国の手に取り戻すためである。十字軍の目的はかつては聖地奪還だった。しかしびローマ帝国とローマ法王の合体により大きくその性格を変貌させていくこととなる。偉大なローマ帝国の復活。既にガリアと呼ばれたフランス地方のほぼ全域、イベリア半島はほぼ半分、そしてゲルマン民族の住む土地でありローマの領域でなかったドイツに関してもほぼ半分を領土とする帝国ができあがっていた。
1210年戦地に居るルイの下に娘誕生の報告があった。名をブランシェと名づける。そしてその年彼は地中海沿岸にその勢力を伸ばし十字軍を終えることと成る。新たに得た領地を忠実な家臣たちに分け与えた。
1211年次女メリセンデ誕生。ルイの次の狙いは富んだ土地であるロンバルディア地方である。かれはかねてよりロンバルディア公爵に対し臣従を取るように使者を送りつけていた。おろかなロンバルディア公爵はこれを拒否し続けルイの怒りを買ったのである。
1215年直轄領全てに動員がかけられた。目的はもちろんロンバルディアの地である。おろかな公爵は自らの地位を失う結果となった。ルイはローマの伝統に従って凱旋将軍として首都パリに帰還。パリ市民の歓迎と司教によるミサが開かれたという。こうしてロンバルディア一帯は再び帝国の支配下となった。
1217年待望の世継ぎが誕生する。カペー家の伝統に従いシャルルと名づけられた。
しかし翌年、病によりこの世を去ることとなる。
不幸はさらに続いた。彼の妻の気が狂ったのである。ルイは狂った妻と食事を共にした。その世彼女はこの世を去ったのである。しかし家臣たちはこの事を不審に思うことなくかえって喜んだといわれる。
その直後イングランド国王の長女ハウィスとの結婚が執り行われた。翌年息子が誕生。アンリと名づけられる。
1226年レコンキスタが実施された。リスボン及びその周辺地域を制圧した彼は忠実な家臣を選んで領主とし統治をまかせることとした。
1229年ヨーロッパの世界に改革を起こしたルイ7世はこの世を去った。東ローマ帝国と並ぶ西ローマ帝国の成立は先代のルイによってなしとげられたのだが、聖俗の統合により時代は新たな扉を開いたのである。
1229年ヨーロッパの世界に改革を起こしたルイ7世はこの世を去った。東ローマ帝国と並ぶ西ローマ帝国の成立は先代のルイによってなしとげられたのだが、聖俗の統合により時代は新たな扉を開いたのである。こうしてローマ帝国は、神聖ローマ帝国と呼ばれるようになる。
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