***1067年初頭のポーランド周辺及びマゾフシェ公領 [#af5e463b] #ref(s-Po1066.jpg,nolink) #ref(s-Po1066+.jpg,nolink) ***1067年のピアスト家・マゾフシェ公領 [#l61a846b] #ref(s-公爵様ご尊顔.jpg,nolink) マゾフシェ公ヴラディスラヴ・ヘルマン(画像・以下ヴラディスラヴ)はポーランド王家ピアスト家の出身で、 現国王ボレスラフの弟にあたる。両者とも妻子はなく、互いが第一継承人となっている。 ボレスラフ王とヴラディスラヴ公は兄弟であるとともに親しい友人でもあり、 折を見て共に猟に出かけるほどであった。 彼らには妹がいるがすでに他国へ嫁いでいる。 マゾフシェ公領は直轄地がプウォツク、クヤヴィの2か所、封臣が1人(チェルスク伯)の標準的な公領である。 公爵居城の置かれたプウォツクの基礎収入はハンブルクやパルマ、トヴェーリと同程度でやや高め、 クヤヴィもそれには劣るがそれなりの収益力がある。 爵位に関する請求権、被請求権ともになし。 ***初陣、大司教反乱 [#z321cb10] ヴラディスラヴはデンマーク王女との婚姻を済ませ、地元の廷臣を集めたところで公爵領の開発に着手した。 最低限の施設がプウォツクに整った頃、1073年兄王がハンガリー王国と共同で ペチェネグ族(ワラキア~モルタヴィア地方の異教徒)討伐を開始したため マゾフシェ公軍は約2000の兵を王に提供し、戦争に協力した。 この討伐戦争は公軍が戦うまでもなく両王国の圧勝に終わり、ペチェネグ族は領土を半減させ兄王は2領を獲得した。 この戦いで兄王は異教徒討伐に味をしめたようで、翌々年には前ポンメルン族(ポーランド北、濃紺色)に宣戦布告。 ヴラディスラヴも部族に宣戦布告を行い、ポンメルンを目指した。 初陣はポンメルン兵1500に対する攻撃であった。この戦いは元帥が重傷を負うという大きな代償と引き換えの勝利であった。 その3ヶ月後、元帥は病死した。 ヴラディスラヴにとっては苦い勝利となったが、ポーランド王国によるポーランド征服は順調で、 あと2か月ほどで全土を確保できるはずであった。 しかし、王領と接するクヤヴィア大司教が突如として挙兵、王都クラクフを包囲し、 これと時を合わせてプロイセン族を支配下におさめたヤドヴィガ族(ポーランド北、白+薄緑計5領)がマゾフシェ公領へ宣戦布告を行ったことで 突如としてポーランド側が守りに転じざるを得ない状況となった。 ヤドヴィガ族の南隣りはマゾフシェ公領である。 ポーランド王国軍の大半はポンメルン包囲戦の最中であったが、ヴラディスラヴはただちに 公領へ引き返し、プウォツクを包囲中のヤドヴィガ族に会戦を挑んだ。 ***大敗北、滅亡の危機 [#b5c4b283] #ref(s-敗北.jpg,nolink) 会戦は敗北に終わった。敵2000弱に対し、3000名で挑んだプウォツクの戦いは 双方約1000名ずつ失ったが、敵軍は包囲を続行し、公の兵士たちは士気が崩壊し敗走した。 戦傷死した元帥に代わる新元帥は全くの無能であり、公自身も軍事は不得手であったため、 有能な指揮官率いる敵軍に蹴散らされてしまったのだ。 一度解散し、再動員した兵を率いて陥落間近のプウォツクの駆け付けたが、今度は 動員可能兵力を喪失するほどの大敗を喫してしまい、プウォツクは陥落。 残るチェルスク伯軍は長く疫病に苦しめられており兵力としてはあてにならず、 もはやヴラディスラヴに打つ手はなくなってしまったのであった。 ヤドヴィガ族はプウォツクを散々に略奪した後、クヤヴィ包囲に入った。 ここでようやく明るい兆しが見えてきた。ポーランドの盟友であるハンガリー王国が ヤドヴィガ族へ宣戦布告したのである。 またポーランド王国軍もようやくポンメルンを離れクヤヴィア大司教の占拠するクラクフへ進軍を始めた。 ヴラディスラヴは祈る思いで救援軍を待ち続けた。 ***危機脱出 [#uf27434b] マゾフシェ公領は救われた。 ハンガリー軍数千の北上によってヤドヴィガ族は自国へ撤退し、主戦場はヤドヴィガ族の領土に移った。 クヤヴィア大司教は粘り強く抵抗したもののついに屈伏し、領地は王領に編入された。 戦争はハンガリー王がヤドヴィガ族の1領を獲得したことで終わり、ポーランド王はポンメルンの2領を得、 マゾフシェ公は領土獲得どころか、直轄領2領ともが略奪と貧困にあえぐこととなった。 直轄領から略奪の影響が消えるのは5年ほど後のことであった。 ***復興、治世中盤から後半の業績 [#tabf359c] 1070年代半ばまで苦難の道のりであったが、その後は順風であった。1079年には長男プルツェミスラフが、 翌年には次男ヤセクが誕生し、それまでに生まれていた女子と合わせて2男4女に恵まれることとなった。 そして当時としては珍しいことに6人全員が成人することができた。 1083年からは十字軍遠征も実施、中東へ兵を送ることはなかったがヤドヴィガ族との再戦や メクレンブルグ族との戦いにおいて一定の戦果を残し、ヴラディスラヴは人々から 信仰篤い人物と評されるようになった。 #ref(s-crusader.jpg,nolink) (但し、一連の戦いを指揮した有能な異教の元帥に対し強引な改宗を迫り、 重症・ストレス・病気のトリプルコンボにより死亡させたという「功績」もある) 領土もダンツィヒ及びホルシュタインを新たに獲得、ダンツィヒは戦僧となった長男プルツェミスラフに与えた。 ポーランド王国は十字軍の過程でペチェネグ族を滅亡させることに成功し、シリアのアレッポを奪取したが、 盟友ハンガリー王国に遠征の隙を突かれワラキア・モルタヴィアの領土と王都クラクフを割譲する屈辱的な和平を結ぶに至った。 ハンガリーはその後も領土を拡張しヤドヴィガ族を滅ぼし、その北にあるサモギディア族、 リヴォニア族も撃破して広大な王国を建設していった。 一方ポーランドは大諸侯のシュレジエン公の反乱や、伯爵の1人が神聖ローマ帝国に寝返るなど 混乱もあった。だが、前者についてはヴラディスラヴが兵力提供を行ったことと、 シュレジエン公が戦死したことで鎮圧に成功し、プロイセンも征服した。 このとき、兄王がマリエンブルクを寄進したことによってチュートン騎士団が誕生した。 12世紀に入るころにようやく平穏な日々が戻ってきた。 ヴラディスラヴも長きにわたる戦乱で遅れていた領内開発を指導し、また老兄王との親交も温め続けた。 (封臣のチェルスク伯ボドツェタ家とも深い親交があり、伯は5人の子供の留学先を全てマゾフシェ公領とするほどであった) この時期、プルツェミスラフに長男が誕生しヴラディスラヴを大いに喜ばせた。 また、兄王の長男とプルツェミスラフが友人となったことはさらに喜ばせることとなった。 旧帝が温かい雰囲気に包まれる中、領内もまた活気にあふれ、ポーランドで豊かなほどに成長していた。 宮廷が温かい雰囲気に包まれる中、領内もまた活気にあふれ、ポーランドで豊かなほどに成長していた。 … 1112年兄王が70歳で崩御した直後、ヴラディスラヴも病に倒れ翌1113年息を引き取った。 享年69。死後まもなく列福された。 ***1113年のポーランド周辺 [#bb5d8322] #ref(s-po1113.jpg,nolink) -史実の兄王と弟公 ボレスワフ2世は有能な君主であったそうですが、司教をミサの最中に殺害したことがきっかけとなって 国を追われ、ハンガリーで死去したそうです。 その後、弟のヴワディスワヴ1世ヘルマンがポーランド公位に就いたとのことです (wikipediaより) [[ポーランド、大国への道]]