**アンドラス王(1147~1194) [#w3a7ea42] #ref(s-三代目陛下.jpg,nolink) (1191年の周辺図は[[マゾフシェ公/ポーランド王 ヤノス(1142~1191)]]を参照してください) (1191年の周辺図は[[マゾフシェ公/ポーランド王 ヤノス(1142~1191)]] 一番下の図を参照してください) 子は二男一女、長男サラモンはホルシュタイン公、三男ヤクブは元帥。 分家筋はグニエズノとサンドミェシの2家。 直轄領9州、称号請求権多数。 セルジューク朝、アレクサンドリア首長国(マリエンブルク領有国)と戦争中 ***アンドラス王の治世 [#c1a54d02] セルジューク朝はマリエンブルク奪回のため、総兵力4万のイベリア諸侯軍を派遣してきたが、 長旅による損耗と兵力の逐次投入、またポーランド諸侯の奮闘もあってアンドラスはマリエンブルク防衛に成功、 その余勢を駆って計25000の兵を動員してアレクサンドリアに向かった。 同地にてアレクサンドリア首長国軍15000と激突、数千の損害を与えて敗走させ、 マリエンブルク割譲を条件に講和。 さらにタラント伯やアルカ伯と合流してシリアのスルタン直轄地を攻撃を開始し、 セルジューク朝が正教国との戦争や内乱で消耗していたこともあって沿岸部を難なく奪い取った。 だが、ベーメン王国が宣戦布告してきたことで情勢は一気に変わることとなった。 #ref(s-…。.jpg,nolink) ベーメン王国の総兵力はポーランドの倍近くであり、さらにポーランド兵はセルジューク軍との戦いで 最大兵力から大きく減少していた。アンドラスは占領地の全放棄と賠償金支払いをもってスルタンと講和し、帰国の途についた。 アンドラスの死はその直後であった。 1194年、ベーメン軍との戦いの最中、アンドラスは敵兵に討ち取られてしまったのだ。 これをきっかけにポーランド軍は総崩れになり、敗走し、ブランデンブルクは陥落した。 アンドラスの治世はわずか3年であったが、イスラム討伐に功績があったとして死後列福された。 享年47。王位はサラモンが継承した。 **サラモン王(1165~1206) [#ceabe8da] #ref(s-四代目陛下.jpg,nolink) 患っていたストレス症はホルシュタイン公時代に解消された。 子は二男三女。男子二人は双方ともホルシュタイン伯へ留学中。 分家筋はグニエズノ・サンドミェシの2家。 直轄領10州、称号請求権多数。ベーメン王関連はベーメン王・シュヴァーベン公・プラハ伯等3伯領。 ***サラモン王の治世 [#ye6155b2] ベーメン王国の侵攻を食い止めるべく、封臣を総動員して直轄軍と共にこれを迎え撃った。 --------------------------------------------- 1195年 2月:ブランデンブルクの戦い→辛勝 3月:シュレジエンの戦い→勝利 5月:ダンツィヒの戦い→大敗、ダンツィヒ陥落 7月:マリエンブルク陥落 8月:シュテッティン陥落 9月:シュラツク・ウェンチツァの戦い→大敗、封臣軍消滅 9月:(王都)クラクフの戦い→大敗、直轄軍壊滅 ---------------------------------------------- 1195年9月の両会戦において合計1万以上の兵を失ったポーランド軍はもはや再起不能な状態に陥り、 あとはベーメン兵が各地を占領する様を傍観するほかはなかった。 1195年の末にはリューベック・アウクシャイツ(リトアニア)以外の全土が占領下に置かれた。 ここに至っては打つ手はただ一つしかなかった。 1196年、サラモンはベーメン王にシュテッティン割譲、 ベーメン王・シュヴァーベン公・3伯への請求権放棄で講和を締結した。 プルツェミスラフ公の時代に得た重要な請求権の放棄はサラモンの権威を大きく失墜させた。 この影響は後々大きな結果を招くことになるが、12世紀末の状況ではやむを得ない選択であり、 また、これにより王国はこの後7年の間平和が保たれたのであった。 例外として破門されたサンドミェシ伯が挙兵して即座に鎮圧される事件はあった(同地は司教領へ)。 だが、1203年サラモンの長患いが肺炎に悪化、同時期に辣腕宰相が70歳で死去してから にわかに封臣達に不穏な動きがみられるようになっていた。 それが表沙汰になったのはある封臣から封建的契約法への変更の申し出がきっかけであった。 サラモンはその案を一蹴し、彼らに疑いの目を向けたことがその怒りに火を付ける結果になってしまった。 #ref(s-内乱の危機.jpg,nolink) #ref(s-ブランデンブルク反逆.jpg,nolink) この後、1公爵8伯爵が次々に反旗を翻し、内乱は王国全土に広がった。 サラモンは鎮圧の兵を出そうとしたが、ふがいない主君を見限った廷臣が数多くいたため、 宮廷内でまともに指揮できるのが1人しかいない状況に頭を抱えざるを得なかった。 王国側に残った封臣たちもその忠誠心は低く、また動員できてもすぐに反旗を翻しかねないので 直轄領及びマゾフシェ公に封じた長男パルの軍勢のみで対処せねばならなくなった。 #ref(s-忠誠心低下.jpg,nolink) --------------------------------------------------------------------- マゾフシェ公パルは逸材との呼び声高く、口の悪い廷臣に「王の子ではない」と噂されるほどであった。 サラモンはパルの能力と忠誠心を見込んで敵の侵攻を防ぎにくい飛び地を中心に5州を与えた。 パルもその期待に応え、戦力が大幅に低下した直轄軍に代わり主力として活躍した。 --------------------------------------------------------------------- 敵は反乱諸侯だけではなく、宮廷内にも存在した リューネブルク伯(ザクセン地方)の兵6000(傭兵込)を撃破し、領地を包囲したが 直後に包囲が中止された。サラモンの預り知らぬところで和平が結ばれたのだ。 #ref(s-急な和平.jpg,nolink) サラモンが急ぎ調査させたところ、宰相の罪が発覚した。 #ref(s-宰相反逆.jpg,nolink) そして次々に要職にある者たちによる反逆行為が発覚したが、解任しようにも 他の廷臣も忠誠心は極めて低く、もはや打つ手は全くなかったのであった。 #ref(s-教区長反逆.jpg,nolink) #ref(s-家令反逆.jpg,nolink) 廷臣を宮廷内にとどめるための贈り物や家令の不正行為によって 使いきれぬほどの財産を誇った国庫はついに赤字にまで転落してしまった。 元帥オタカル(軍事21)だけは忠誠心が殆ど揺らぐことなく侵攻する反乱軍を次々に撃退していたため、 致命的な打撃を被るのを辛うじて避けることに成功していたが、内情はこの有様であった。 そのような中、さらに1公爵が挙兵した。メクレンブルク公、かつてのポーランド王エンドレである。 #ref(s-旧主決起.jpg,nolink) そして最後の分家グニエズノ伯も反旗を翻し、 宮廷では母にまで見限られる悲劇に見舞われたサラモンは衰弱し、生きる望みを失っていた。 #ref(s-サラモン王治世最末期.jpg,nolink) {黄緑:直轄地、水色:諸侯領(忠誠心高)/赤:敵対中、橙:諸侯領(忠誠心低)} 1206年、サラモンは息を引き取った。享年41。王位はパルが継承した。 [[ポーランド、大国への道]]