(1206年頃の地図については[[ポーランド王 アンドラス / サラモン]]の一番下を ご参照ください) ***1206年頃のピアスト家・ポーランド王国 [#le89a889] #ref(s-四代目陛下.jpg,nolink) パル王は極めて有能かつ公正で慎み深い人物であり、能力面でも性格面でも廷臣から尊敬される存在である。 ただし、弟のゲザとは犬猿の仲。もう一人の弟マテとは良好。 1206年の王国はまさに四分五裂状態。ブランデンブルク公やメクレンブルク公に敗れた 王国軍は一部を除いて壊滅状態。 子は3男1女。請求権はサラモン王が諸々の事情で手放すことしばしばであったため、 反乱諸侯に対するもののみ。直轄領は11州。 ***パル王の治世初期(1215年頃まで) [#o1721df8] パルの即位直後、ブランデンブルク女公の軍勢がリューベックに押し寄せたが、 当地と隣のハンブルクはパルのマゾフシェ公時代からの直轄地であったため、 ブランデンブルク兵は敗退し、本国へと引き上げていった。 この一戦に衝撃を受けたクルス司教(ポーランド北東)は戦わずして称号及び全財産を差し出し降伏した。 ---------------------------------------- 1206年末:クヤヴィ伯領没収 1207年前半:グニエズノ伯領、サチ司教領没収 1207年後半:ブランデンブルク女公と講和(割譲なし)、リューネブルク伯領没収 一方、遠隔地の反乱諸侯に対しては遠征は困難であり、無条件での講和で妥協した。 ---------------------------------------- 1208年、メクレンブルク公軍に対し大勝し、その全直轄領を没収したことにより、内乱はほぼ終結した。 ただし、メクレンブルク公は封臣からの領土没収とチェルスク伯の継承により領地を回復し、 ベーメン王に臣従したことで近い将来もう一戦交えるであろうことはパルも十分認識していた。 そもそも全兵力を動員してまで早期鎮圧を目指したのはひとえにベーメン王国が他国と戦争中のうちに 終結させ、国土を安定させるためであった。 そのために、時間と兵力を要するブランデンブルクへの攻撃を控えたのであった。 同じころ、ザクセン公が独立公となっていた。その封臣にはプロイセン地域に2か所の 所領をもつスカロヴィア伯がいた。 パルはこの好機を逃さずスカロヴィア伯に宣戦、反逆諸侯が一掃されたポーランドに 直轄領1州封臣3のザクセン公が敵うはずもなく、スカロヴィア伯はそのまま臣下へ編入し、 ザクセン公とは賠償金での和平を結んだ。 --------------------------------------- ザクセン公との戦争に前後した頃から、パルの元に旧封臣たちから次々に再臣従の願い出が送られてくるようになった。 領土が安定し寛大になる余裕ができたパルは全てを許し、彼らの臣従を許していたが、 そのうちに旧封臣以外の独立伯からも庇護を求められるようになった。 この願い出は1208年のローン伯(オランダ)を皮切りに パルが崩御する1250年まで毎年のように送られてきたのであった。 #ref(s-s-大諸侯の臣従申し出.jpg,nolink) ---------------------------------------- 1211年には有能な家令を失い経済が急速に悪化したブランデンブルク公を降伏させ、 残すはメクレンブルク公の領土のみ。この奪回の好機はその翌年、1212年に早くもやってきた。 1212年4月、南伊タラント伯から北伊ニース伯及びベーメン王から攻撃を受けている旨が報告された。 パルは両国とシュテッティン伯、メクレンブルク公に宣戦布告し、諸侯軍含む総勢6万の兵を動員した。 ポーランドと同盟していたノルウェー=スウェーデン王国も同時にベーメンへ宣戦した。 #ref(s-ベーメン戦争(1212年)両国領土.jpg,nolink) (ポーランド(青)、ベーメン(黄緑)) ポーランドの直轄地はクラクフ周辺部とアウクシャイツ(リトアニア)とリューベック。 ベーメンの直轄地はプラハ近郊、フランドル地方、南ドイツ。 -1212年~1213年 プラハ近郊に進軍した元帥オタカル率いる16000(上下シュレジエン兵)は プラハ守備隊を敗走させこの地域を制圧したが、ベーメン軍の反撃の損耗で兵の多くを失い一時撤退。 同時に北ドイツ方面から南ドイツへ進軍中のパル王率いる15000はバイエルン地方の敵兵と小競り合いを 続けつつも次々に占領し、北伊アクイレイア伯(独立伯)を下し、同地でいったん軍を解散した。 ----------------------------- アクイレイア伯に関してはヤノス王の時代に亡命してきた廷臣アリギエロが新たな伯の座に就いた。 亡命から実に半世紀、68歳にして実現したのであった。 ----------------------------- -1212年~1214年 ポーランド本国近辺のベーメン領の制圧を担当したイムレ(パルの叔父)率いる10000は順調に 進軍し、シュテッティンを直轄領に編入し、メクレンブルク公支配下の領土も全土制圧した。 これによりついにメクレンブルク公国は滅亡し、エンドレ・ボドツェタは北アフリカへと亡命した。 フランドル地方ではがら空きの同地を近辺唯一の封臣であるローン伯を動員して略奪にいそしんだが、 帰還したフランドル兵に撃退された。 -1214年~1215年 フランドルではリューベック兵主力のポーランド軍とノルウェー兵がフランドル兵を駆逐し、 同地を完全に略奪することに成功した。 一方、プラハを奪還したロンバルディア公ディエゴの軍12000はそのままシュレジエンへと侵入、 パル王はオタカル元帥とともに15000でこれを迎え撃った。 #ref(s-シュレジエンの戦い.jpg,nolink) この会戦によりベーメン軍の主力の一翼を担うロンバルディア公軍が壊滅し、 またイムレ率いる軍勢もプラハ進攻へ合流したため情勢は一気にポーランドに傾いた。 南ドイツでは奪還された地域もあったが、圧倒的な兵力で再奪還を果たした。 そして1215年最後のベーメン王直轄地が占領下に入ったことでベーメン王はついに屈服した。 ベーメン王に対してシュテッティン伯、ザンビア伯、ポーランド王への請求権放棄を条件に講和は成立した。 王位への請求権をもつメクレンブルク公とベーメン王を下したことでパルの威信は全欧州に轟き、 ベーメン王とシュテッティン伯、ザンビア伯、ポーランド王への請求権放棄を条件に講和が成され、 ベーメン王の権威は大きく失墜し、以後しばらく国内諸侯の反乱に苦しむこととなった。 一方、王位への請求権をもつメクレンブルク公とベーメン王を下したパルの威信は全欧州に轟き、 この講和の後にはヴェネツィア共和国やベーメン王を見限ったロンバルディア公から 臣従の申し出がなされるようになったのであった。 ポーランド王国が再び大国として君臨する日がやってきたのであった。 ***パル王の治世中期以降(1215~1250) [#u0083ee8] 大国となったポーランドだが、以前にはなかった問題が持ち上がってきた。 遠隔地の臣下が多数となったため、安定化に努めても1、2諸侯が裏切ることはなかなか止められないことであった。 1220年以降リューネブルク伯に封じた弟ゲザの反乱からベーメン王との再戦、 アイルランド動乱やロンバルディア公の反乱など、内憂外患に悩まされることが少なくなかった。 さらに、忠誠を誓う封臣にも問題はあった…周辺国や異教徒に勝手に宣戦することだ。 特に異教徒が近くにいるイタリアの諸侯は積極的にエジプトや北アフリカの異教徒王国へ宣戦していたが、 教皇後見人になっていたパルはこれを見捨てることはできず、玉座の温まる暇なく各地へ遠征を続けた。 1227年には遠征によってアッコンやイェルサレムを陥落させた(が、パルは遠隔地の直接統治は行わず、 イェルサレム大司教ベルナト(パルの従弟)に一任)。 1225年のマイセン公の降伏によって内乱の危機は払しょくされ、 異教徒問題も1230年代に入るとほぼ解決し、パルはリトアニア王位獲得への挑戦を始めることができた。 #ref(s-内乱の終結.jpg,nolink) まず目を付けたのはリヴォニア公だった。70近い老公爵の継承順位第二位はパルであったが、 パルは教皇後見人の立場を利用し、第一位の少年を破門し、その領土を「穏便に」継承することに成功した。 #ref(s-少年の破門で得たもの.jpg,nolink) さらに、ポーランドに隣接していたグルジア王封臣のぺレスティ伯に宣戦、 ぺレスティ伯は抵抗むなしく併合され、同地はパルの四男(私生児)タドルに与えられた。 ペレスティ伯の君主であるグルジア王はローマ帝国との抗争に明け暮れていたため、 ポーランドと本格的に事を構えたくなかったようで、その後すぐに講和がなされた。 これにより、1232年リトアニア王位が創設され、パルはポーランド=リトアニア王となった。 1237年にはホルシュタイン伯に侵攻したデンマーク王を逆に打ち破り、デンマーク王位を 奪い取ることに成功、王位は3つにまでなった。 #ref(s-デンマーク王屈服.jpg,nolink) またこの頃までにチュートン・聖ヨハネ両騎士団を傘下に収めた上で称号を剥奪、両騎士団総長も兼任した。 #ref(s-王位クラスの称号.jpg,nolink) 1236年からは従弟のイェルサレム大司教ベルナトが教皇に選出され、パルの権威は益々揺るぎないものとなっていた。 --------------------------------------------------- だが、王国の経営が順調になっていくのに反し、後継者問題は徐々に深刻化していった。 早世した次男を除き男子は4人おり、長男ガスパルを王国の慣習通りマゾフシェ公に封じ、 三男以下3名についてはそれぞれ伯に封じていた。 ガスパルは神学者でパルほど軍事に聡いわけではなかったが、そのほかはパルとほぼ同じで、 ガスパルは神学者でパルほど軍事に聡いわけではなかったが、概して有能であり 当初パルはガスパルへの継承を全く問題視していなかった。 だが、リューネブルクを追放されたゲザがガスパルの宮廷に入ったころから次々に問題が噴出し始めた。 ガスパルには息子が2人いたが、教育の結果は芳しくなかった。しかしそれだけならばまだよかった。。 ガスパルには息子が2人いたが、教育の結果は芳しくなかった。しかしそれだけならばまだよかった。 長男チボルはあろうことか近親婚を行ってしまい、子供たちにその悪影響が出てしまったのだ。 チボルとその息子ラスロには超大国となったポーランドを維持する能力はない、 そう考えたパルは悩み抜いた末に1240年、最も優秀な五男アンドラスにリトアニア王位を与え、 継承順位筆頭に押し上げた。リトアニア王となったアンドラスはパルの期待に応え、 パルの崩御までにリヴォニア地方を中心に5州領土を拡張した。 一方、ガスパルはパルの行為に怒りを覚え叛意を露わにしたが、その怒りゆえの過ちによって 異端信仰に転落し、ついにはベルナト教皇によって破門されてしまった。 名実ともに継承権を失ったため、図らずもアンドラスへの継承は確固たるものとなったのであった。 #ref(s-ガスパル.jpg,nolink) ------------------------------------------------------ 後継者問題が解決し、再び穏やかな日々が戻ってきた。国土は安定し、莫大な収入があり、 戦争はない…パルが即位してから50年近くたってようやく得られた平穏さであった。 1250年、ポーランド=リトアニア王にしてデンマーク王、チュートン騎士団総長兼聖ヨハネ騎士団総長 パル1世ピアストは老衰により崩御。享年65。 その戦争指導力をもって軍を率い続けた偉大な王によって、ポーランドもまた偉大な王国となったのであった。 #ref(s-po1250+.jpg,nolink) 王位はリトアニア王アンドラスが継承し、同時に8州を分割しチュートン騎士団を復興させた。 ------------------------------------------------------- …エンドレ・ボドツェタはあの後どうしたのだろう。 1213年北アフリカのイスラム教国に亡命したのち、伝手をどうたどったかは不明であるが、 1218年頃までにはベーメン諸侯の廷臣になり、さらに1224年までにはポーランドの大諸侯、 ブランデンブルク公になっていたのだ。 #ref(s-エンドレ元国王の帰還.jpg,nolink) 1226年、ヤノス公時代から何かと関わりの深かった元ポーランド王はこの世を去った。享年51。 ちなみに[[マゾフシェ公 プルツェミスラフ(1079~1150)]]時代に分家し、その後追放された メクレンブルク・ピアスト家の末裔のマルゴツァタはティロル女伯を務め、 その子のアゴストン・アルパドはナッサウ伯、後にベーメン王となった。 [[ポーランド、大国への道]]