*十五代目-Vaclav 1344-1363 [#s28c7b78]
&ref(15RheinfeldenVaclav.gif,nolink);→→&ref(15RheinfeldenVaclav2.gif,nolink);
10/5/4/5 14歳
**概要 [#s027d3c1]

***家系図 [#q392b15a]
#ref(15RheinfeldenFami.gif,nolink)

***1344-世界情勢 [#yf6d5322]
#ref(1344.PNG,nolink)
東は&color(blue){Galich};、&color(blue){Moskva};、&color(blue){Kiev};、&color(blue){Bolgar};の正教徒勢力がロシアをめぐり血みどろの戦争を続けている

一番候補は&color(blue){Bolgar王国};(オレンジ)で、唯一の王国のため勢力圏が一番大きく(画像では切れているが)
Rus地方の18/47を持っている。
でもゲーム終了までに統一できるか微妙なところ
こっちに来られるのは勘弁なので永久に戦争していてほしいものだ

**プレイ開始 [#n4917e03]
***ふたつの疫病 [#wfea233c]
1344年の腺ペスト
#ref(pest.png,nolink)
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腺ペストは南東より徐々に浸透。恐ろしい勢いで''1350年になると&color(blue){ローマ};全土に浸透''
その後を追うように肺ペストが南方より広がってくる。

ペストが広がった地域では収入が-90%
国庫はけっこうあるから収入は問題ないが、徴収できる兵がほとんどいなくなった
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もう一つの疫病。
&color(blue){ローマ};に蔓延る疫病とは''諸侯の反乱''
ペストよりやっかい・・・・・

手持ちの公爵位を分け与えて直下の封臣を減らすよう努力したが
50年には内乱の危機となって皇帝の能力まで引き落とす
この諸侯らは独立宣言→臣従という意味がわからないことを繰り返す
勢力圏は減らないが、独立宣言のイベントで信仰が減り続ける
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このうざったい作業は50年前半、&color(green){Vaclav};王の統治前半を費やすことになった。
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***不穏な空気 [#b47085be]
2代目西王Muslihiddin。彼の政策は親アラブ的だった。
Granadaの長い統治下にあったイベリア半島では多くの有力者がアラブ系やその文化を受容した者たちであった
初代Renaud王の子の中で長子Muslihiddinのみがアラブ文化を受け入れる
このことが彼にとってプラスとなった
Muslihiddinは有力者らの協力をえて、1329年大公らの反乱を鎮圧。
短期間で&color(blue){西王国};を安定させ、諸侯らにつけいられる隙を見せなかった

この状況が一転するのが1349年
&color(blue){西王国};まで広がった''ペストにMuslihiddin西王が倒れる''。
わずか30歳のときであった。

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この権力の空白に、再び諸侯らは動き始める
彼らはまず後継予定者の長子Farukが12歳で若すぎるとして
&color(blue){西王国};後継を大公らへ開こうとした

この試みが失敗し長子Farukが3代目西王となると、彼らは別の方向から攻める
つまり、先代Muslihiddinから続く親アラブ政策は反キリスト的な政策であり、十字軍の後退であるとしたのだ
彼らは教皇を動かし、''Faruk西王を破門させる''。
大義名分を得た諸侯らは、1351年西王国直領へ攻めはいった。

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いわゆる西王国大内乱の始まりである。
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王国側も無策ではなかった。
Faruk王が即位すると大公らの動きに先んじて、''&color(blue){ローマ帝国};へ防衛同盟を申し入れていた''。
諸侯らの動きが明らかになると、同盟にしたがい&color(blue){ローマ};も&color(blue){西王国};に兵を送ることとなる。
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***西国大内乱 [#zedeff3e]
王国側・反乱諸侯らの勢力図
#ref(nishinairan.png,nolink)
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見ると圧倒的に反乱諸侯有利なのだが
今はペスト爆発中

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西王国ペスト図
#ref(nishipest.png,nolink)

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こんな状態で内乱(笑)
同盟を結んだ直後で、ちょうど&color(blue){ローマ};の内乱もおさまってきたところだったので介入を決意

&color(green){Vaclav};ローマ皇帝自らも幼いころからの苦労を味わったことから関心もひとしおであった。
&color(green){Vaclav};皇帝は自身も西王国へと遠征し、Faruk西王の身近で各地を転戦する。
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ところが1362年、内戦に介入して10年もたったとき
反乱諸侯との会戦中&color(green){Vaclav};皇帝は矢を脇腹に受け''重傷をおってしまう''

軍事も低かったしさすがに無謀すぎたか
先代も重傷をおっていたしもう少し慎重にならなくては・・・いまさらだけど
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反乱諸侯をほとんど鎮圧し状況はよくなっていたので、
これを機にあとは青年になったFaruk西王に後を任せ''&color(blue){ローマ};は兵を退くことにした''
途中あまりの内乱っぷりに介入を後悔したこと多々…まったく得るものがない10年だった…
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***病気家族 [#h30e2504]
&color(green){Vaclav};皇帝の重傷を受け浮上したのが継承問題
有力視されていた長男は王が自ら教育していたというのに
52年ペストにかかり54年には亡くなっていた。

そして継承候補となるのがこの3人である

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#ref(keisyo.png,nolink)
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なんだこれ……たまげたなぁ…
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とりあえずNesle家のMartinだけは避けなければならないのだけど
Vaclav皇帝の次男&color(green){Vladmir};も、弟&color(green){Rupprecht};も近親交配持ちである。

どっちもどっちだが年齢には18歳の差がある
統治期間が短いほうがいいし、&color(green){Rupprecht};には健康な長男もいた

継承問題は皇帝と重臣らの密談で決まった
皇帝の命で宮廷奥に押し込めていた''次男&color(green){Vladmir};は暗殺される''。
&color(green){Vladmir};をずっと気にかけていた王妃Konstanzeはひどいショックをうけて鬱ぎ込んでしまったという

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暗殺より1年後、''1363年&color(green){Vaclav};ローマ皇帝重傷が元となって病死''。
34歳。19年の統治であり、前半は反乱諸侯との対応に苦慮し、後半は西王国の内乱に介入と休む暇もなかった
一帝四副王体制のために東欧、&color(blue){セルビア王位};宣言のために少し領土を広げたが
前半に封臣が各地で勢力圏から抜けだしており
総計では勢力圏が縮まった

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#ref(1363-2.PNG,nolink)
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