#ref(vm10663.png) #ref(fam1.png) ヴェルマンドワ家はシャルルマーニュの玄孫、ヘルベルト1世が北フランスはヴェルマンドワの地を与えられたことに起源を持つ。 ***ヴァロア公 [#o6c81e43] 1067年3月、ヘルベルトは国王フィリップからパリに呼び出され、ヴァロア公の位を与えられる。 これにより、同じヴァロアに領地を持つアミアン伯はフランス王の封臣から新たにヴァロア公の封臣となった。 フィリップがなぜアミアン伯ではなくヘルベルトをヴァロア公に封じたのかについては諸説あるが、 二領を有し、国力で勝るアミアン伯の上に一つしか領地を持たないヴェルマンドワ伯を据えることで、 あえて不安定な力関係を作り、互いに牽制させようとしたのではないかといわれている。 それまで二百年余り伯爵の位に甘んじてきたヴェルマンドワ家であったが、 このとき公爵の位を得たことでヘルベルトはシャルルマーニュの子孫として皇帝の位を淡く夢見るようになったという。 同年11月、ヘルベルトとアデルの間に二男アントワーヌが生まれる。 続いて翌年8月に生まれた二女アントワネットをはじめ三人の娘が誕生した。 ***第一回十字軍 [#lf3a0764] 1067年にコンスタンティノス10世が崩御したビザンツ帝国では皇太子ミカエル7世が即位する。 しかし彼の無能ぶりに失望したパフラゴニア侯アレクシオス・コムネノスの反乱を皮切りに内乱が勃発。 反乱の火の手は急速に広まり、反乱諸侯軍によって首都コンスタンティノープルが頻繁に包囲される有様であった。 #ref(ミカエル7世.png) #ref(vm10751.png) 1073年、ミカエルは教皇アレクサンデル2世に使者を送り、このように訴えた。 「このまま内乱が続けばセルジューク朝の侵入を招き、コンスタンティノープルはキリスト教徒の手から失われてしまう、内乱鎮定のため西欧からも援軍を送ってほしい」 この要請を受けたアレクサンデルはクレルモンの公会議の席で、ギリシア人の脅威となる異教徒を殲滅すべきであると主張。 さらにこれを機会として諸侯に聖地イェルサレム奪回を呼びかけ、ここに第一回十字軍が宣言されたのであった。 しかし公会議で教皇が名指しで出兵を期待していたフランス国王フィリップはこの呼びかけを無視、失望した教皇は彼を破門する。 これによりフィリップは急速に諸侯の支持を失っていった。 #ref(フィリップ.png) ***下ロレーヌ介入 [#ie9267d3] 1076年、隣国の下ロレーヌ公ゴトフリートが病死し、後を継いだ幼い息子ハインリヒは封臣の離反に悩まされていた。 すでに心身に病を抱えていたヘルベルトだが、この内乱に介入することを決断、反逆者であるブラバント伯に宣戦を布告する。 #ref(vm10761.png) 9月、ヘルベルト自ら率いるヴァロア公軍1200はブラバントを包囲し、数日後にフランス王弟ユーグ率いる援軍1600が合流した。 そして翌月ブラバントは陥落、同地を占領したヘルベルトはブラバント伯領を併合した。 ***フランス内乱 [#df390e29] #ref(france10761.PNG) 内乱前のフランス 破門された国王フィリップに対する諸侯の反発は強まる一方であり、1078年2月、ブルゴーニュ公が国王に対してついに反旗を翻す。 これを鎮圧するため国王は諸侯に連隊の提供を求めた。ヘルベルトにも要請が届いたが、静観を決め込んだ彼は要請を無視した。 翌月にはブルゴーニュ公に同調したシャンパーニュ公が国王に宣戦を布告。ヘルベルトの同盟者であったランス司教がそれに続いた。 動員令を無視したうえに同盟者が内乱に加わったことで、ヘルベルトにも内乱を計画しているのではないかとの嫌疑がかけられるようになった。 これに気づいたヘルベルトは自身も内乱に加わってフランス王国の首都である豊かなパリを手に入れ、戦後の主導権を握ろうと考えた。 #ref(パリを我が手に.png) 早速パリに進軍した彼を迎えたのはすでにパリを包囲していたシャンパーニュ公であった。 「援軍、大儀である」と微笑む彼を前にして、ヘルベルトはもっと早く反乱に加わらなかったことを後悔したが、彼はすでに次の手を考えていた。 ブルゴーニュ公アンリと密約を結び、戦争に勝利した暁にはパリはヘルベルトが、オルレアンはブルゴーニュ公が領有することで合意したのだ。 やがて7月にパリが陥落すると、ヘルベルトはいち早く国王に使者を送り、ブルゴーニュ公と占領地を分割することを通告した。 「それでは話が違う」といきり立つシャンパーニュ公にヘルベルトは勝ち誇った笑みを浮かべる。「援軍、大儀であった」 #ref(france10781.png) #ref(france10782.png) 戦後のフランス 戦後の9月、国王フィリップはアキテーヌ公を頼り、ブールジュに宮廷を開いた。 報復を恐れたヴァロア、ブルゴーニュ、シャンパーニュの三公爵はそれぞれ大国と結んでこれに対抗しようと試みる。 すなわちブルゴーニュ公はナポリ王に、シャンパーニュ公はイングランド王にそれぞれ臣従し、ヘルベルトはスコットランド王と同盟を結んだのであった。 ***封臣たちの要求 [#fefc749d] 1080年10月、ヘルベルトは病気を悪化させ、肺炎に罹る。 ヘルベルトの余命はもう長くはないと感じたのか、かつてヴァロア公になり損ねたアミアン伯が反乱を起こす。 内乱に乗じて勢力を拡大したヘルベルトだが、今度は自分が内乱に苦しむ羽目になった。 とはいえパリを手に入れた今、アミアン伯の兵力はかつてのような脅威ではなく、ヴァロア公軍は難なくこれを下した。 ヘルベルトはアミアン伯からアミアンを召し上げ、ヴェクサン伯に降格する。 この戦争の後、ヘルベルトの封臣であり、友人でもあるエノー伯ボードワンが、安定した統治のためにはもっと封臣に寛容であるべきだと進言。 #ref(ボードワン.png) これを容れたヘルベルトは封建的契約法を制定した。 ところがボードワンはこれに満足せず、翌年にはさらに要求を突きつけてきた。 #ref(法律変えたら.png) 1.選抜法を制定 2.男子均等相続法を制定 ニア 3.封臣の忠誠心が大幅に低下 ヘルベルト「はて、私は君を顧問に任じた覚えはないが・・・。友人だからといって跡継ぎのことにまで口出しするのはやめてもらいたい。」 ボードワン「ほほう、あなたのためを思って忠告したのだが、残念だな。」 この決定に不満を持ったヴェクサン伯が再び反逆したため、ヴァロア公軍はヴェクサンを占領、併合した。 ヴェクサン伯の位はヘルベルトの長子ユーデスに与えられた。 ***死 [#befe5d4c] 1081年10月、ヴァロア公ヘルベルトは息を引き取った。国の行く末を心配した家臣に毒を盛られたとも言われるが定かではない。 ともかく、長子であるユーデスがヴァロア公ユーデス2世として即位した。