家系図 #ref(fam3.png,noimg) #ref(トマス2.png,nolink) ヴァロア公トマス ***アルザス公復興 [#t4c7aac3] ヴァロア公宮廷の政務は、内乱前にフランス王が使っていたパリの小さな城で行われていた。 しかし一族や廷臣の数も増え、城が手狭になったと感じたトマスは、国庫が潤ってきたことを機会に宮殿の建設を命じた。 宮殿の建設が着々と進む中、トマスと不仲だった妻のベアトリクスが彼にいろいろと文句をつけるようになった。 #ref(ベアトリクス.png,nolink) アンジュー公シャルルの娘、ベアトリクス #ref(もっと領地を.png,nolink) 1.「謙虚」がつく。威信-25。25%の確率でベアトリクスが鬱病になる。 ニア2.「傲慢」がつく。信仰-25。アルザス公の要求権を得るが、25%の確率でストレス、10%の確率で統合失調症になる。 「人々は皆、あなた様は大殿よりも全てにおいて優れていると誉めそやしておりますのに、あなた様は大殿と違って領地のひとつも手に入れられないのですね」 「お前などにはわからないだろうが、あらゆる計画には実行すべき時期というものがある・・・下がっていなさい」 その数日後、トマスはローマ教皇にアルザス公位要求権の認定を要請した。 かつてアルザス公の位はシャルルマーニュの曾孫、ロートリンゲン王ロタール2世の庶子ユーグが保有していたが、 彼が西フランク王シャルル2世によって殺害されたことでアルザス公家は断絶していた。 トマスは同族としてその復興を主張したのである。 当時アルザス公位はドイツ内乱の後クロアチア王に臣従したドイツ貴族の手にあったが、彼は精神に病を抱え、異端者として破門されていた。 そのため教皇もトマスによるアルザス公継承を許し、さらには現アルザス公を討伐する許可まで下した。 この許可を得るやトマスはアルザス公に宣戦を布告する。時に1100年のことであった。 これを受け、イタリア王とその同盟者ポーランド王がトマスの、クロアチア王とブルグント王がアルザス公の側に立って参戦した。 トマス率いる1万3千の部隊はアルザス公領ズントガウに向かい、国王オットー率いるイタリア軍と合流して共同でこれを占領、 捕虜となったアルザス公にすべての称号の引渡しを認めさせて兵を引いた。 この戦争で国王オットーはブルグント王から王位を奪還し、一部のドイツ諸侯たちが再びオットーに忠誠を誓った。 ***ナヴァラ戦争 [#k0d81dd3] 1101年10月、イタリア王とヴァロア公の勢力伸張に脅威を感じたナヴァラ王が、パリを手に入れるべくトマスの討伐を宣言した。 イタリア王オットーは即座にトマスへの支援を表明する。 #ref(ナヴァラ戦争.png,nolink) 戦闘計画 #ref(vm11011.png,nolink) #ref(vm11011.jpg,nolink) パリとヴェルマンドワの兵力でナヴァラ王国首都ディジョン周辺を早期に攻略 占領地の維持はヴェルマンドワ連隊とイタリア軍に任せてパリ連隊を領地の守備に戻す 同時にアミアンとメーヌの部隊で南部の領地を潰しにかかるが、ディジョンを攻略した段階で早期の講和を図る 緒戦においてヴァロア公軍は、12月のオセール会戦でトマス軍1万8千をもってナヴァラ王自らが率いる6千を粉砕するなど優勢であった。 しかし、集結しはじめたナヴァラ王の封臣たちの軍隊によってディジョンで1万の兵を失う大敗を喫した後は、領地を守るのが精一杯であった。 トマスはナヴァラ王に講和を打診したが、ことごとく拒絶されたため、トマスは国王オットーやローマ教皇を通じてナヴァラ王と講和する道を模索する。 トマスは教皇に「イタリアとナヴァラの戦争によってアルザスの山野が戦場となっている。アルザス公としてはこれを看過できない」と仲裁を依頼した。 教皇がトマスのアルザス公位を保証している以上、教皇は依頼を断ることができないだろうと踏んだのだ。 さらに自分とナヴァラ王ではなく、あくまでもイタリア王とナヴァラ王の戦争の仲裁を要請することで、教皇に借りができるのを防いだのである。 そして1102年5月、ヴァロア公領ズントガウにてイタリア・ナヴァラ両国王の会談が行われ、白紙講和が結ばれた。 主君である国王が講和したことに伴いヴァロア公とナヴァラ王の交戦状態も解除され、トマスは最大の危機を脱した。 ***1106年 [#fa5f6e45] この年にはさまざまな出来事があった。 パリの宮殿が完成し、親族のアモリィがブルターニュのパンティエーヴル伯位を継承したほか、 嫡男ラウルが成人し、トマスは彼にズントガウ伯の位を与えた。 #ref(ラウル.png,nolink) ズントガウ伯ラウル また、崩御したイングランド王ウィリアム2世の後継者にシャンパーニュ公エティエンヌ・アンリが選ばれた。 #ref(シャンパーニュ公2.jpg,nolink) イングランドの新たな王、エティエンヌ・アンリ。30年前のフランス内乱においてトマスの祖父ヘルベルトに出し抜かれ、パリを横取りされた人物 内乱後はイングランド王に臣従して力を蓄え、国王ウィリアム2世がスコットランド軍との戦いで重傷を負って政務に立てなくなると 国王に迫って継承法を貴族による互選に変えさせることに成功、これによってノルマン朝は3代にして王位を失った 即位後彼は息子たちに公爵位を与え、ブロワ家による世襲を明確にする。ブロワ朝イングランドの成立である ***名ばかり十字軍 [#d59f412d] 1107年、イタリア国王オットー4世が病死。嗣子を残さずの崩御であったため、一族のルトベルトが後を継いだ。 その2ヵ月後、舅で教皇後見人のアンジュー公ジョフロワがパリの宮殿を訪れ、十字軍への参加を求めてきた。 #ref(ジョフロワ.png,nolink) #ref(ジョフロワ.jpg,nolink) 個人的にもトマスと親しいジョフロワは、古稀を目前にしながらもかくしゃくとしていた ヘルベルトの代から続き、宣言から30年が経った今も何の成果も挙げていない十字軍だが、だからこそ成功させるべきだとジョフロワは力説した。 彼の熱意に感服したトマスは異教徒と戦うことを誓い、遠征の準備に取り掛かった。 しかし、これに反対したのが妻ベアトリクスである。 彼女はトマスと意見が対立するたびに父親が彼の側に回ることに辟易しており、今回もまたそうであった。 遠い地域に勢力を持つ異教徒との戦争は人と金と労力の無駄であるとしてトマスに遠征を思いとどまるよう求めたが、 怒ったジョフロワに異端者とまで罵られ、引き下がらざるを得なかった。 #ref(悪妻伝説.png,nolink) #ref(悪妻伝説.jpg,nolink) 顧問5人の忠誠心がそれぞれ20%の確率で0になるイベント そこで彼女は重臣たちを味方に引き入れ、トマスが聖地へ遠征するのを阻もうとした。 彼らのほとんどは彼女の主張に耳を貸さなかったが、元帥ウンベールが彼女に同調して”無益な戦い”への同行を拒否した。 #ref(ウンベール.png,nolink) ウンベールはトマスの父ユーデスの従弟にあたる 軍を率いる元帥が反対したとあってはトマスも遠征を諦めなければならなかった。 トマスは十字軍遠征こそ諦めたが、孤立していたアルク伯やルクセンブルク伯を武力で併合するなど、小規模な軍事行動は引き続き行った。 ***二度目の内乱 [#ac869f33] 1111年、国王ルトベルトが肺炎に罹り、危篤に陥った。 これを王位簒奪の好機と見たバイエルン公ハインリヒがナヴァラ王の後ろ盾を得て反乱を起こした。 叛逆者となったハインリヒを討伐すべく、諸侯に国王への連隊の供出を求める使者が飛んだ。 トマスはこれを受けてハインリヒに宣戦を布告、ウンベールに4千の兵を授けて敵地へ送った。 しかしウンベールが敵軍との戦いで重傷を負ったため、トマスは兵を引かなければならなかった。 翌年ルトベルトは薨去し、長子でまだ3歳のコンラートがイタリア王コンラート3世として即位した。 #ref(コンラート3世.png,nolink) #ref(コンラート3世.jpg,nolink) コンラート3世の境遇は先々代のオットー4世と非常に似通っていたため 内乱の拡大を危惧する者は多く、実際そのような結果になろうとしていた トマスはこれを機会にハインリヒと和睦してこの内乱を静観することを決める。 その間にも内乱の火の手はさらに広がり、トスカーナ公などのイタリア諸侯も国王に叛旗を翻した。 トマスの廷臣たちからも反乱に加わるべきだとする意見が出たが、トマスは「常に忠臣面をして簒奪の機会を窺うべし」と考え、 反乱に加わった弱小諸侯を併呑するなど、幼い国王に協力する姿勢を崩さなかった。 1119年、トマスはローマ教皇によってその後見人に指名された。 篤信さのほかに、かつての後見人であったアンジュー公ジョフロワの娘婿という地位が評価されたらしい。 1127年、かねてよりトマスが公位を要求していたフランドル公がナヴァラ王から独立したため、彼は武力で公位を奪取すべく宣戦。 #ref(vm11261.png,nolink) #ref(vm11261.jpg,nolink) しかし、これがトマスの最後の戦争となった。敵軍との戦闘で頭に一撃を受けて重体に陥ったのだ。 トマスは死の床に嫡子ラウルを呼び寄せ、後事を託して世を去った。享年57歳であった。