[[パレオロゴス家>プレイレポ/パレオロゴス家]] [[コンスタンティノス11世が語る>プレイレポ/パレオロゴス家/コンスタンティノス11世が語る]] *コンスタンティノス11世が語る 2 [#w6a483bb] &br; #ref(konstantinospp.jpg,nolink) 僕は罠を用意した。 #ref(egypt1432.jpg,nolink) 1432年、エジプト 地中海南岸の覇者マムルーク朝の本国 罠の名はエジプト。 800年前に帝国が放棄した肥沃な属州だ。 いくつかの土侯国がマムルーク朝からの自立を保っていて、 ここからエジプトを食い破ることができる、ように見える。 **出征 [#j1b71758] &ref(gleb_bassarabpp.jpg,nolink); グレブ・バサラブ)皇帝陛下はエジプト遠征を計画しておいでです。 &ref(danishmend_khopyorpp.jpg,nolink); ダニシュメンド・コペル)御武運を祈ると伝えてくれ。 &ref(gleb_bassarabpp.jpg,nolink); ニケーア公は参加なさらないのですか? &ref(gleb_bassarabpp.jpg,nolink); 陛下は決して公を悪く思っておられるわけではないのです。 &ref(gleb_bassarabpp.jpg,nolink); 後詰めでかまわないのです。贈り物も預かっております。 &ref(danishmend_khopyorpp.jpg,nolink); わかった。考えてみよう。 &br; 誠意が通じたとは思わない。 皇帝軍の留守をねらって内地に居残るような貴族を 僕が許しておくはずがない、と考えたのだろう。 それは正しい。 こうして叛意5貴族の全員がエジプト遠征に参加することになった。 僕らは肩を抱きあって和解を演出した。 #ref(5rebeliousvassals.jpg,nolink) 叛意5貴族 ニケフォロス・ド=ジョワンヴィル、 ダヴィド・パレオロゴス、イサキオス・セルブリアス、 ダニシュメンド・コペル、デメトリオス・アンティオキテス 秋、遠征軍はナイル河口ダミエッタをめざして出撃した。 同盟国ヴェネツィアがすべての輸送を引き受けてくれる。 葡萄酒色の海をおおう聖マルコ獅子旗が頼もしい。 僕は旗艦の船尾楼に立って、 遠ざかるコンスタンティノープルの都を眺めていた。 ひとり思いに沈みながら。 **一人目 [#jaac7bc8] #ref(vassalsdeath.jpg,nolink) 封臣の一人が異教徒に拉致され、惨殺される 上陸早々、騒ぎが起きた。 ニケフォロス・ド=ジョワンヴィルが行方不明になった。 ダミエッタ郊外の民家で発見されたのは一週間後。 ひどい死に様だった。 僕はニケフォロスの昔の友人として彼の葬儀を執り行った。 流した涙は嘘じゃない。 #ref(enemies143210.jpg,nolink) 1432年10月、コリント伯ニケフォロス・ド=ジョワンヴィル死亡(下段中央) 残り4人 **二人目 [#v7131ad1] ダミエッタの砦がなかなか落ちない。 小さな土侯国のくせに戦力が充実してて、 ちょっと城壁に近づいただけで猛烈な弓射をあびせてくる。 #ref(danishmend_khopyorpp.jpg,nolink) ニケーア公ダニシュメンド・コペルが負傷した。 僕はダニシュメンドに帰国を許した。 歳だし、あの傷ではもう永くないと思う。 予定より早く事が進んでるけど、どんどんやってしまおうか。 &ref(konstantinospp.jpg,nolink); コンスタンティノス)アルメニアコン公はいつもの幕屋だね? &ref(sofia_darmagnacpp.jpg,nolink); ソフィア・ダルマニャック)はい。 &ref(konstantinospp.jpg,nolink); では、やれ。 #ref(serbliasassasination.jpg,nolink) 戦陣にてイサキオス・セルブリアスの暗殺に成功 密偵頭を発覚2回で、本人を未発覚1回で 僕はイサキオスのために主に祈った。 ほんとにいい奴だったんだ。 #ref(enemies143302.jpg,nolink) 1433年2月、アルメニアコン公イサキオス・セルブリアス死亡(下段左) 残り3人 **三人目 [#x832ed11] #ref(nicaeawar.jpg,nolink) 5月、ニケーア公ダニシュメンドが叛逆したことを知らされた。 彼が故国へ引き上げてすぐだ。 内乱の危機にはつながらなかった。 この時点で叛意を明確にしていたのは もはやダニシュメンドだけになっていたから。 叛意諸侯をあぶりだし排除するという目的は達成された。 僕は見せかけの『エジプト遠征』を中止し、 遠征軍の帰還を命じた。 #ref(yakut_ofkhopyor.jpg,nolink) 新ニケーア公ヤクート・コペル 7月、ダニシュメンド・コペルが死んだ。 やっぱりエジプトでの戦傷が致命的だったと思う。 後を継いだのはまだ10歳のヤクート。 #ref(nicaeawarend.jpg,nolink) ニケーアのコペル家臣団は冷静で、すぐに和平を申し出てきた。 僕はヤクートの再臣従を許した。 僕とダニシュメンドとの対立は個人的なもので、 コペル家に対して含むところはなかったんだ。 少なくとも、そういうことにしておこう。 #ref(enemies143307.jpg,nolink) 1433年7月、ニケーア公ダニシュメンド・コペル死亡(上段中央) 残り2人 **四人目 [#n38447a4] ニケーア叛乱が起きる少し前のこと。 &ref(gleb_bassarabpp.jpg,nolink); 小アルメニア公。ルドルフ兄君とのいさかいはまだ終わりませんか。 &ref(louis_luxembourgpp.jpg,nolink); ルイ・リュクサンブール)終わるどころか。 &ref(louis_luxembourgpp.jpg,nolink); 主君のボヘミア王がアナトリアへ援軍をよこすそうだ。 #ref(luxemburgs.jpg,nolink) ボヘミア王臣、モラビア公ルドルフ・ルクセンブルクと 小アルメニア公ルイ・リュクサンブールの対立は 幼時からのものだった #ref(edward_luxemburg.jpg,nolink) ボヘミア王 エドゥアルト・ルクセンブルク ボヘミア王は本気だった。 ヴェネツィア公使からもたらされた情報によると、 アドリア海はボヘミア王軍の借り上げた船でいっぱいだそうだ。 1433年初夏、帝国はその臣下を守るため ボヘミアとその同盟国イングランドとの戦争に突入した。 #ref(front1433.jpg,nolink) 僕はすぐに防衛計画を立てた。 連隊は皇帝領の兵を中心に編成した。 エジプト遠征、ニケーア叛乱で疲弊した諸侯はゆっくり休ませた。 -ロマン・バサラブ指揮トラキア総予備25000をカリポリスに -カラ・コペル指揮テサロニケ軍13000をテサロニケに -小アルメニア公ルイ軍13000をイコニオンに これら要塞化された州を拠点として、迅速に機動防御を行わせる。 #ref(romaninnovative.jpg,nolink) ロマン・バサラブ奮戦 #ref(battle14330912.jpg,nolink) 1433年9月。 エーゲ海地域はボヘミア王軍38000による大規模な攻撃を受けた。 ロマン・バサラブの奮戦により十数回にわたる攻撃は撃退され、 僕は帝国の防衛力に自信をふかめた。 #ref(demetorios_antiochitespp.jpg,nolink) 翌年2月、僕はデメトリオス・アンティオキテスを陣中に呼び、 マケドニア公軍3600にアビドスへの進軍を命じた。 彼らはエジプトから帰還したばかりで消耗がひどい。 でも、僕は進軍を命じた。 #ref(demetoriosdeath.jpg,nolink) 1434年2月4日から6日にかけて マケドニア公デメトリオスはイングランド・ボヘミア連合軍と戦った 翌7日、マケドニア公軍からデメトリオスの姿は消えていた アビドスでは激しい合戦がおこなわれた。 デメトリオスはよく戦い、よく守った。 僕はそれを知っている。 デメトリオスの魂に平安があるように。 #ref(enemies143402.jpg,nolink) 1434年2月、マケドニア公デメトリオス・アンティオキテス死亡(上段右) 残り1人 #ref(reputation143309.jpg,nolink) ここまで極力暗殺を用いずにターゲット排除を行ったため 評判の維持と『内乱の危機』回避を両立させることができた **終戦 [#tcc64661] 1434年7月、ボヘミア王軍撤退。 同9月、イングランド王軍撤退。 #ref(peacebohemia.jpg,nolink) #ref(peaceengland.jpg,nolink) 1434年7月、ボヘミア王軍撤退。 同9月、イングランド王軍撤退。 帝国の圧倒的な防衛力を見せつけて、1年間の干渉戦争は終わった。 帝都へ凱旋した翌日、僕はダヴィド・パレオロゴスを ブラケルナエ宮殿に呼んだ。 &br; [[コンスタンティノス11世が語る 3>プレイレポ/パレオロゴス家/コンスタンティノス11世が語る 3]] [[パレオロゴス家>プレイレポ/パレオロゴス家]] TIME:"2010-10-06 (水) 22:44:04"