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*イサキオス4世が語る [#yf58d019]
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 イサキオス4世パレオロゴス イサキオス3世長男

14歳でローマ皇帝になりました。
テオドロス叔父はよく僕のことを「おまえは臆病すぎる」って言ってたけど、
それは少し違ってて、僕は慎重なんです。

臆病に見えるくらい慎重でなければならないんです。
お祖父様も父様も暗殺されてしまった。
そしてたぶん母様も……。

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 1398年初夏、皇太后マリアは早すぎる不自然な死を迎えた

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 摂政テオドロス・パレオロゴス テサロニケ専制公
 帝位継承順第1位

テオドロス叔父はおそろしい人です。

でも僕にはよくしてくれました。
皇帝の歩むべき道、敵を打ち破る方法、民に愛されながら恐れられる方法を
僕の夢見がちな頭へ丁寧に叩き込んでくれたのです。

叔父が僕の命を狙っていた?
冗談はよしてください。
あなただってあの悪疫で何人もの親兄弟、恋人、友人たちを失ったでしょう。
ただでさえ数少ないパレオロゴスの男子を減らしてどうするんです。

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 東方の黒い死がパレオロゴス家を襲った

叔父は僕が即位するとすぐに叛乱を鎮めてしまった。

軍事貴族に爵位を与えてなだめたり、
アセン家の姫をテオドロス兄様に嫁がせて重用したおかげでしょう。

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 有能な帝国外務長官レイリ・アセン モレアス公女

エレナお祖母様は故郷のブルガリアへ帰って女王になりました。
女王といえば聞こえはいいですが、
要は叛意持ち諸侯が多いブルガリアを帝国から切り離したんです。

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 ブルガリア女王エレナ
 つかの間のシシュマン家復璧にブルガール貴族らは涙した

こういうふうにして帝国は安定に向かいました。


**コペル家のこと [#v0a66982]
ブラケルナエ宮殿に僕だけが知ってる秘密の中庭がありました。
こっそり玉座の間を抜け出して、いつもそこで本を読んでいたんです。

ある日、中庭に行ってみると先客がいました。

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3人の異邦の少女たちが、泉に素足をひたして、笑いさざめいて。
息を呑むほど美しかった。
その夜、皇帝の寝台に横たわって、僕は彼女らのことを考えて悶々としました。

トゥラ、ボズジン、オズグルはコペル家の娘です。
父親カイカウスがモンゴル人に敗れ、
故地のドン流域を追われたコペル家は帝国に庇護を求めてきました。

悪疫による人手不足の折、
有能な子女を擁するコペル家は帝国にとってかけがえのない存在でした。
テオドロス叔父は家長カイカウスを個人的な相談役につけたほか、
長男ダニシュメンドを帝国軍総司令官に、3女のトゥラを密偵頭に任じました。

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ダニシュメンドは僕の大切な友人になりました。
妹ボズジンに恋していることを打ち明けると大笑いされたものです……。

その頃、僕はうすうす気付いていました。
叔父がそんなにもコペル家を重用するもうひとつの理由に。


**モンゴル戦役のこと [#n389a6f0]
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1398年、トゥグリル朝は破竹の進撃を続けていました。
すでにポーランドは滅亡し、
スウェーデン王とドイツ王がモンゴルと戦っているらしい。
僕は彼らの使節が救援を求めにやってくるのを何度も見ました。

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 スウェーデン王ベント・スパッレ
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 ドイツ王ヴェルナー・フォン・ハプスブルク

一方、コペル家の男たちは勝手知ったるキプチャク平原に派遣され、
モンゴル軍の動向をひそかに観察していました。

コペル家の男たちは戦役に反対でした。
でも、自分たちを受け入れてくれた帝国のためなら戦える。
みなそう言いました。

テオドロス叔父はなかなか動きません。
コペル家から得た情報はモンゴルの強大さを物語っていました。
ダニシュメンドは90000の大軍がカフカスを越えるのを見たそうです。
モンゴルと戦った者は負けるのではない、擦り潰されてしまう。

でも、叔父がついに帝国総動員をかけました。

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 ●中央軍16000
 アナトリア戦線での遅滞防御
 ●ルーシ派遣軍21000
 キプチャク大平原で遊撃をおこない、ドイツ・スウェーデン正面の敵圧力を減らす
 ●ペルシア派遣軍21000
 シリアからカスピ海へ打通し、モンゴル領ペルシアからルーシへの援軍を遮断

目標はモンゴル主力をアナトリアとキプチャク平原に誘引し、
ドイツ・スウェーデン連合軍をラドガ-ドニエプル線まで進出させること。

動員の完了した1399年秋、帝国はモンゴル人に二度目の戦いを挑んだのです。

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 1400年の戦線
 ルーシ派遣軍は無人の野を順調に進撃したが、ペルシアでは一部の部隊が敵に捕捉された

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 1401年の戦線
 帝国軍は兵力を散らしたあげく各個撃破されるという過ちを犯した
 戦略目標であったドイツ・スウェーデン連合軍の東進はほとんど達成されなかった

ええ、ご存知のとおりです。
帝国は史上まれに見る大敗を喫しました。
2年のうちにルーシ派遣軍、ペルシア派遣軍はあとかたもなく消滅し、
中央軍は全アナトリアを放棄。

武勇にすぐれたコペル家の男たちも半数が命を落としました。
ダニシュメンドが口数少なに語ったところによると、
ルーシは生き地獄だったそうです。

そうして1402年1月、
火事場泥棒のオスマン軍がモンゴルと競うようにして攻めてくる中、
ついにテオドロス叔父は屈辱的な講和をモンゴルのハーンと結んだのでした。

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 1402年1-10月の帝国
 アナトリア主要部を喪失した上、12州もの請求権を放棄してトゥグリル朝と停戦した

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でも、オスマンとの戦いはまだ続いていました。

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