[[プレイレポ/カフカスに福音を(マヌィチ伯 マニク家)]] ''マヌィチの改宗'' クロアチア王にしてマニク家の第5代、カンダクの治世までに、カトリックの勢力は拡大し、 イティル、クマ、アラニア、イェゴルリクの4州が改宗していた。 しかしそのほとんどは、暴動と徹底的な弾圧を伴う烈しいものであった。 #ref(hinkonD1.jpg,left,nolink) &size(10){マヌィチ周辺の信仰地図。白=カトリック 茶=正教 灰色=異教 薄緑=ムスリム}; カンダクの治世の後半には、マニク家の故地であるマヌィチがカトリックに改宗する。 初代ブリカンの時代からおよそ100年をかけて、ようやくここまでたどり着いたのである。 カフカスのカトリックは、未だ他宗派の海に浮かぶ小さな島の様なものであった。 この島が大きくなるか波に呑まれるかは、まだまだ予断を許さない状況だったのである。 #br ** 6代 サロス(1166-1182) [#w9230e51] 4代のベレルが考え、5代のカンダクが実施したと言われる サリカ法と選抜法を組み合わせたマニク家独特の継承法は、 一つの大きな問題を内包していた。 それは、現統治者に嫡出の息子がある場合、統治者の兄弟や叔父・伯父の継承順が 大きく後退するという問題であった。 ベレルの即位の経緯を知る者ならばなおのこと、この点は容認し難かったであろう。 彼はその先代に息子があったのにもかかわらず、「実力」で当主になっている。 自分たちにもその権利はあると、彼らは考えたのである。 次男であるサロスをアゾフ伯に封じ、 次いで領内では唯一の公位であるダルマチア公に任ずることで、 カンダクは誰を後継者に据えるかを予め明らかにしていたのであった。 有能な統治者でもあったカンダクの時代は、誰も表だっては反対しなかった。 また継承自体は、問題なく済んだ。 しかしその直後、まるでカンダクの死を待っていたかの様に、 クロアチアは内乱に突入するのである。 ''内乱勃発'' アゾフの地からアラニアの都に住まいを移し、長子クルを後継のアゾフ伯に封じた直後、 サロスの許に封臣離反の知らせが次々に届けられた。 1166年秋 ターナ伯(当主は弟のクッダナ)、離反 クマ伯(当主は従兄弟のサンギパン)、離反 1167年 臣従させて間もないカヘティ伯も便乗して離反。 父カンダクから家族は大切にせよとでも言い付かっていたのか、 サロスの反乱への対応は対照的なものだった。 ターナ伯とクマ伯には、正当な支配権と独立を認める。 カヘティ伯領はクロアチア軍に蹂躙され、伯は追放。 内部のごたごたを解消しようとしたのか、何とこの状態で、サロスは外征に精を出すのである。 1173年 クマン族より離反したアブハジア支族を襲い、この地を占領。 1176年 セルジュークの支配から独立したグリア伯を攻め、グリアを得る。 黒海への出口であるグリアは直轄地にしたものの、サロスの親族偏重主義は変わらず、 カヘティを次男ビターゼに、アブハジアを三男サンギパンに与えている。 この時期、先王の代に独立したクリミア伯が代替わりして再び臣従するという事も重なり、 サロスは自らの選択に自信を持った様である。 クリミア伯には兄の死で空位になっていたザフルミアの伯位も与えた。 鷹揚な王の姿勢を、人々に示したかったのかも知れない。 勢力を拡大すれば、離反した他の親族たちも再び臣従すると思ったのかも知れないが、 そうだとすればサロスの見通しは甘過ぎも良いところであった。 1176年 クリミア伯が離反。独立ではなく宣戦を布告しての離反であった。 さすがにこれは看過できず、サロスは直轄地からの兵を率いてクリミアに遠征し、 クリミアの支配権を奪回した。 しかしクロアチアの地へは遠征する気も起きなかったのか、 ザフルミア伯として独立を認めたのであった。 1179年 アブハジア伯に封じていた息子サンギパンが離反。 同年、クロアチアのセニ伯が離反 1180年 ウソーラ伯が独立 何よりも親族を大切にしたサロスにとって、息子にまで離反された事の衝撃は大きかったらしく、 一連の反乱に遠征軍も出せないほどであったという。 結局彼らはみな、独立を許される事になった。 1182年 離反した封臣が誰一人として戻らないまま、サロスは死んだ。63歳だった。 #ref(hinkonD2.jpg,left,nolink) &size(10){マニク家第4代から7代まで。過剰な親族主義は離反しか産まなかった}; サロスの治世の失敗は、何より彼の外交能力の欠如にその原因があるというのが 史家たちの伝える所である。おそらく、それは事実なのであろう。 しかし、親族を優遇しつつ後継者からは遠ざけるという矛盾が、 選抜法に慣れた彼らの間に叛意を起こさせた可能性も無視できない。 この時期以降、ここまで大規模な親族による内乱は起こっていないのである。 ベレルの目指した継承法が定着するのに、必要な犠牲であったのかも知れない。 クロアチア王位は、サロスの次男でカヘティ伯であったビターゼが継いだ。 親族主義の後始末は、新たな王の手に託されたのである。 &br; ** 7代 ビターゼ(1182-1218) [#c8aefdee] マニク家の7代となるビターゼがクロアチア王位を継いだ1182年、 アゾフ伯に封じられていた兄のクルが王国からの独立を宣言した。 恒例行事の様になっていた親族の離反だが、これがビターゼに決意を促したらしい。 翌1183年、ビターゼはクマ伯に宣戦。軍をクマの地に進めた。 #ref(hinkonD3.jpg,left,nolink) &size(10){マニク家の「滅ぼされるべき」その1、クマ伯サンギパン}; クマ伯サンギパンは教会で教育を受けたにもかかわらず好色・怠惰で、 しかも法王庁から破門され王に背くという、一族のいわば厄介者であった。 先代は血縁であるという理由でこれを許したが、ビターゼは許さなかったのである。 クマ伯の軍を破り、サンギパンから伯位を剥奪したビターゼは、 国を立て直すために思い切った改革に踏み切る。 それは先代と先々代のやり方を根本から改めるものであったが、ビターゼは迷わなかった。 ''アラン諸侯の育成'' テンギズ・カラチ・ナ・ドヌ ブルデュカン・ザカタラ レヴァン・ウッタ ダヴィド・ヴォルノヴァハ アスバル・グディロ 西欧の歴史ではまったく馴染みのないこれらの人々は、 ビターゼにより王国内の伯として登用され、統治に当たった者たちである。 その多くがビターゼの廷臣であった様だが、血族の度重なる離反に耐えかねたのか、 ビターゼは領土の再編を迫られる度に「赤の他人」である彼らに伯位を与え、 王国の統治の一翼を委ねたのである。 慢性的な人手不足に悩むビターゼの宮廷では、伯のなり手にも事欠いたらしく、 「アラン人で王への忠誠が高ければ、能力は問わない」というほどであったという。 身内が信頼できなくなったビターゼの窮余の策であったとはいえ、人々の嘲笑を誘わずには済まず、 アラニアの都では次の様な風刺詩が流行する始末だった。 「父さん、僕に土地を下さい」 「息子よ、ならば王宮へ急げ 王が全ての配分を終えぬうちに」 人々に笑われながらビターゼが進めたアラン人の登用であったが、後にこれは意外な効果を生む。 彼らは婚姻や留学、日々の雑務などを通じて、統治者としての自覚と力を得、 クロアチア王国を支える支配層を形成するようになるのである。 この時期から、アラン人と西欧カトリック世界とのつながりはマニク家を通してだけではなく、 彼ら「カトリック=アラン人」を通じても広がって行く。 当時は誰一人として意識はしていなかったろうが、 カフカスの地がカトリック世界に連なる、新たな里程が築かれたのである。 先王の時代の後始末を一つ付けたビターゼだが、統治体制の改革は一時の中座を余儀なくされる。 1189年、グルジア王の宣戦を受け、全面戦争に突入したのである。 ''グルジア戦争'' #ref(hinkonD4.jpg,left,nolink) &size(10){グルジア王、ペドロス・ド・シャティヨン。フランス系の血を引く正教徒だった}; この時代、グルジア王位はバグラトゥニ家からシャティヨン家へと移っていた。 また、若き王はビターゼの友人でもあった。 国内の再編で忙しいビターゼには、グルジアに宣戦する理由はなかった。 しかし今回の戦いは、グルジアとクロアチアという2つの王国の雌雄を決する戦いになる。 マニク家によってカトリックの勢力が増しすぎたのを、 正教徒であったグルジア王がこれ以上看過できなかったのかも知れない。 何よりカフカスの地は、2人の王が並び立つには狭すぎたのである。 先王サロスの時代に離反したアブハジア伯をグルジア王が滅ぼしたのが、 嚆矢であったと見る人も多い。 お互いに請求権を持つ身であれば、些細なことが宣戦の理由になる。 グルジア王による宣戦を受け、軍を収拾するため各地へ将軍が派遣された。 クロアチアの都とグルジアの都は、隣接していたのである。一刻の猶予も許されなかった。 #ref(hinkonD4.jpg,left,nolink) #ref(hinkonD6.jpg,left,nolink) &size(10){グルジア戦争。北部の直轄州から集められた軍勢は、グルジアの都イメレティアを目指した}; 北部のアブハジアとイメレティア、南部のタオと分断されたグルジアを相手に、 ビターゼはまず北部の直轄州から集めた軍勢をイメレティアへと進めた。 南部は山がちであり、タオからの軍勢はしばらく動かないと読んだビターゼは 南のグリアの軍勢もイメレティアに投入する。 成人を迎えたばかりのグルジア王ペドロス率いる軍、およそ1000。 ビターゼ自らが指揮を執るクロアチア軍、総勢3000。 イメレティアでの戦いは、クロアチア軍の圧勝に終わった。 時をおかずしてビターゼはアブハジアに攻め込み、この地でもグルジア軍を破った。 踵を返したクロアチア軍は、南に下ってタオに攻め入る。 タオを守るのは、ビターゼと反目したあげく出奔し、グルジアの宰相となっていた マニク家のアラテイである。 #ref(hinkonD5.jpg,left,nolink) &size(10){マニク家の「滅ぼされるべき」その2、グルジア宰相アラテイ}; クロアチア軍はアラテイの軍も散々に打ちのめし、 タオの地を占領した。 直轄領全てを占領されたグルジア王には、降伏しか道は残されていなかった。 1190年 グルジア戦争終結 ビターゼはアブハジアとイメレティアを得ながら、タオの地はグルジア王に残した。 南のトルコ勢に対する、防波堤的な役割を期待したのかも知れない。 しかしこのもくろみは外れ、 グルジアはこの15年後にセルジューク・トルコの侵攻により滅亡する。 カフカスの多数派であった正教徒勢は、こうしてカトリックにその地位を奪われたのである。 #ref(hinkonD7.jpg,left,nolink) &size(10){グルジア戦争後のカフカス。正教徒の勢力はほぼ一掃された}; 1197年 旧クロアチア領に残っていた唯一の封臣ヴァシュ伯が独立。 マニク家は、かつてのクロアチアを全て手放した事になる。 1202年 カラハン王から独立したトラペズス首長に宣戦。トラペズスの地を得る。 マニク家は、カフカス地方への勢力拡張を着実に進めるのである。 ''北方の雄'' #ref(hinkonD9.jpg,left,nolink) &size(10){「北方の雄」ノヴゴロド王エウセビオス・アルギロス。ブルガリア王とビザンツ皇帝を兼ねる}; 1205年、ビターゼはノヴゴロド王&size(10){☆};エウセビオス・アルギロスと同盟を結ぶ。 かつて勢力を誇ったルーシは衰退し、代わって平原の覇権を握ったのは ブルガリア王とビザンツ皇帝を兼ねる、強力な王であった。 この時期、グルジアの敗北も重なり、ルーシ平原は正教徒のノヴゴロド王、異教徒のクマン王、 そしてカトリックのクロアチア王で分割されたのである。 1210年 ノヴゴロド王の求めに応じ、ノヴゴロドから離反したガラス伯に宣戦。 ガラスはドナウ川の河口、クロアチア領とは黒海を挟んで正対する位置にあった。 船を仕立てたクロアチア軍はガラスに上陸、ノヴゴロド王に先んじてこの地を得た。 クリミア地方に合わせ、ドナウ川河口にも足場を築くことにより、 クロアチア王の勢力は黒海を徐々に覆う形で広がりつつあったのである。 その後の数年間は、いくつかの小規模な反乱が起き、 異端の疑いで元帥を火あぶりにした他は大事なく、 ビターゼは安定した治世を送ることができた。 性急に伯に任命した廷臣の幾名かは、期待に反して離反することもあったが、 それらのリスクを考慮しても、ビターゼによるアラン人の登用は クロアチアに益をもたらしたのである。 1218年 ビターゼは穏やかな老いの後で静かに死んだ。76歳だった。 #ref(hinkonD8.jpg,left,nolink) &size(10){マニク家第6代から8代まで}; ビターゼは子に恵まれず、弟のサンギパンは追放先で客死、アゾフ伯で兄のクルも既に亡かった。 クルの一人息子テンギズも、1211年に死んでいる。 サロスの直系で残っていた、テンギズの息子アスクカダルが、後を継いだのである。 アゾフ伯として独立して数十年、この一族が王位に就くことは想定されていなかったが、 運命の巡り合わせが若者を王位へと導いた。 それは、同時代の人々から「剣と十字架で統治した」と称される王の誕生であった。 &br; &size(10){☆追加王号。ルーシを北・中・南に3分割し、その北部にあたる}; &br; [[プレイレポ/カフカスに福音を(マヌィチ伯 マニク家)]]