[[プレイレポ/カフカスに福音を(マヌィチ伯 マニク家)]] マニク家について マヌィチ伯であった当時のマニク家がどの様な人々で構成されていたのか、詳しくはわかっていない。 11世紀の当時、どうやら複数の有力家門がマニク家を名乗っていたらしく、 少なくとも3つの家系(便宜上東マニク、中マニク、西マニクと呼ばれる)が知られている。 部族社会の名残からか、マヌィチ伯の相続法は一種の選抜制を敷いていた様である。&size(10){☆}; #ref(hinkonB1.jpg,left,nolink) &size(10){青字=女性 子については多くを省略}; 宗教との関係では、おそらくブリカンの発案と思われる修道会至上制が制定されていた。 カトリックの信徒となったブリカンとその後継者たちの”先兵”となり、 新たに征服された地の改宗を進めたのは、彼ら修道士たちである。 時には武装した兵として、時には荒れ果てた地を耕す開拓者として、 修道士たちは正教、イスラム、異教が入り乱れたカフカスの地にカトリックの教えを広めて行った。 領地を治める法については、全くわかっていない。 おそらくは伝統的な慣習法を採用していたのであろう。 マニク家の2代目の当主、レスペンディアルがマヌィチ伯を相続した当時、 廷臣たちの多くはカトリックの信徒で占められるようになり、 一方マヌィチの人々の多くは未だ正教を信仰していた。 そして、レスペンディアル自身は、熱心な正教徒だったのである。 #br ** 2代 レスペンディアル(1093-1098) [#v6749c37] レスペンディアルの治世は、衝撃的な宮廷内の事件で幕を開けた。 宰相であったペロスラヴァ・コサカが異端の信仰ありと告発を受け、処刑されたのである。 ペロスラヴァは中マニク家の当主クルクの妻であり、宮廷のカトリック化を進めるために ブリカンがラグーザ共和国より迎えていた女人でもあった。 レスペンディアルはこの事件によって、自らの信仰は父とは違うということを 廷臣たちに知らしめたのである。 宮廷内の不穏な空気を察知したのか、レスペンディアルは事件直後から積極的な外征に打って出る。 1095年、クマン族の支配下にあったアラニア支族が反乱を起こし独立。 すぐさまレスペンディアルはこれに宣戦し、クマン族が軍を差し向ける前にアラニアを占領。 この地の領有権を得た。 #ref(hinkonB2.jpg,left,nolink) &size(10){マヌィチ、アラニアの2領を有す。南にはセルジュークの封臣}; #br カフカス地方では最も豊かな地であるアラニアを得たことで、 マニク家の威信は増し、この地の覇権争いに足を踏み入れる事になる。 しかし、この栄光は諸刃の剣でもあった。 アラニアを得ることで、マヌィチ伯は伸張著しい強国、 セルジューク=トルコと境を接することになったのである。 南のグリア、カヘティはもともとグルジア王の領土であったが、 この時点ではセルジュークの封臣が治めている。 当面、彼らを刺激しないことが、マヌィチの安定のためには不可欠であった。 1097年 聖職者たちが、異教の地となっていたアラニアの改宗を提案。 正教徒である彼らはブリカンによって追放され、レスペンディアルが呼び戻していたのだった。 彼はこれを承諾。 しかし改宗は失敗に終わり、翌年には大規模な反乱に発展した。 レスペンディアルは軍を率いてこれを鎮圧したが、廷臣からは冷ややかに迎えられた。 同年、カトリックの信徒であった新宰相がまたしても異端の罪で処刑されていたためである。 正教徒とカトリックの対立は、どうしようもない所まで来ていたのであった。 1098年 レスペンディアルは廷臣の死(自然死であった様である)によって、 隣国ハザール侯の侯位請求権を得る。 宮廷の空気に危機感を募らせていたレスペンディアルは時をおかずにハザール侯に宣戦。 軍を率いて侯の治めるイティルへと侵攻した。 レスペンディアルの軍、マヌィチとアラニアからの動員で総勢1500。 ハザール侯の軍、イティル全土からかき集めた兵が800。 ヴォルガ河のほとりで行われた会戦は、歩兵騎兵入り乱れての激戦となった。 しかし倍の兵力がものを言い、マヌィチ軍が徐々にハザール軍を追いつめる。 レスペンディアルは突撃を命じ、自らも軍の前に進み出たが、 馬上の彼を敵歩兵の槍が突き落とした。 群がる敵兵。味方の救援は間に合わなかった。 私は正しいキリスト教徒であると叫びながら、レスペンディアルは死んだ。28歳の若さであった。 レスペンディアルは子を残さずに死んだため、マヌィチ伯は中マニク家のアスクカダルが継いだ。 宮廷に届けられた指揮丈を手にしたアスクカダルは、即位式もあげずにハザールの地へと急いだ。 ハザール侯との戦いは、未だ終わっていなかったのである。 #br ** 3代 アスクカダル(1098-1123) [#m9c6885e] #br マニク家の3代目となったアスクカダルにとって幸いだったのは、 ハザール侯との戦いの大勢がすでに決していた事だった。 会戦で勝利したマヌィチ軍は粛々とイティルの包囲を続け、 1099年春にはこれを陥落させる。 他に領土を持たないハザール侯は、無条件で降伏するより他になかった。 こうしてアスクカダルは、即位間もなくしてハザール侯位という「果実」を手にしたのである。 #ref(hinkonB3.jpg,left,nolink) &size(10){ ハザール侯位を奪い3領を有す}; 年が変わって1100年、アスクカダルは関係の悪化していた主君ジオクレア公と手を切り、 新たにクロアチア王に臣従先を変える。主君との関係が希薄な点は依然と変わらなかった。 直轄領を3に増やし、伯爵より上の位を得ながら、 アスクカダルの前途は多難に満ちたものだった。 他文化、他宗教の大帝国が繁栄を謳歌できたのは、遠い昔の話。 ハザールの侯位を得た直後から、アスクカダルは反乱の鎮圧にひたすら走り回る事になる。 #ref(hinkonB4.jpg,left,nolink) &size(10){ この宗教的混沌。私にどうしろと・・・?}; #br 1100年、アラニアで住民の蜂起。同年中に鎮圧。 1101年、再びアラニアで反乱。イティルからの派遣軍がこれを粉砕。 この戦いの功により、アスクカダルはアラン人の元帥をアラニア伯に封じた。初めての封臣である。 戦乱の処理を押しつけたかっただけかも知れない。 1104年、主君であるクロアチア王が法王より破門を受けてしまう。 面倒ごとは御免とばかりに、アスクカダルは今度はハンガリー王に臣従する。 自分の都合でころころと主君を変える彼のやり方は、ずいぶんと批判を受けたが、 本人は気にしなかった。 それよりも切実な問題を、アスクカダル自身が抱えていたからである。 この後の数年間、ハンガリー王の宮廷には、「カトリックへの改宗を迫る使い」を送るよう アスクカダルから度々催促の手紙が届けられた。 先代のレスペンディアルが正教徒であった影響か、アスクカダルは未だ正教徒であった。 しかし彼は、先代レスペンディアルではなく初代ブリカンの意志を継ぐ方を選択する。 1109年11月 念願の使いがアスクカダルを訪れ、彼は晴れてカトリックの信徒となった。 同時に、カトリック世界では王(King)に次ぐ位である公(Duke)を名乗る権利を得、 晴れてハザール公として、この地へのカトリック布教の誓いを新たにしたのである。 1115年 かつての主君であったアラニア侯が、反乱軍により滅ぼされる。 クマの領有を宣言した反乱軍に、アスクカダルはすかさず宣戦。 マヌィチとイティルから派遣された軍がクマを占領し、この地の領有権を得た。 こうして、カフカスにおけるマニク家の影響力は、ますます強まったのである。 同年、封臣であるアラニア伯とグルジア王の間に争いが起こる。 セルジューク=トルコに押され衰退著しいグルジアではあったが、 マニク家が圧倒できる相手では無い。 宣戦はしたものの適当な所で兵を引き、アスクカダルとグルジア王はあっさりと和睦した。 翌1116年、新たに領土となったクマで住民が蜂起。 大部分が異教徒であった住民たちにとって、狂信的なアスクカダルの統治は 耐え難いものだったのであろう。 しかし反乱軍の徹底的な壊滅により、不穏分子がいなくなったクマの地は、 2年後にカトリックに改宗する。カフカスのカトリックは、最初の里程を築いたのである。 この年はマニク家にとって、記念すべき年となった。 1123年 娘を1人得た後は長く男子に恵まれなかったアスクカダルに、初めての男子が誕生。 プロヴァンス公の廷臣、クララ・フォン・ヴァイマールとの間に生まれた息子は、 エミヒと名付けられた。 しかしアスクカダルは、息子の成長を見届けることはできなかった。 同年5月、アスクカダル死去。37歳であった。 アスクカダルの死の年、中マニク家には公の息子エミヒと甥のカンダクの2人の男子がいたが、 どちらもハザール公位を継ぐことはできなかった。 エミヒはあまりに幼すぎ、カンダクは宮廷内で全く無力な存在であったからだ。 勝ち気な性分でもあったクララは、幼い息子を連れて生家へと戻り、 息子の運命を別の形で試す道を選ぶ。 ハザール公位は、既に宮廷内での地位を確立していた西マニク家のベレルが得たのである。 以後のマニク家の歴史は、西マニク家の歴史となる。 それゆえか、ベレルをマニク家の初代とする史家も多い様である。 #br &size(10){☆ゲーム的には、この地に割り当てられた姓がマニクのみであったため}; &size(10){ マニク姓を持つ複数の廷臣が登場。後にdinastiesに地名姓を追加することで解消};