[[プレイレポ/カフカスに福音を(マヌィチ伯 マニク家)]] ''マニク家の女たち'' 自らの治める地をカトリック化するという壮大な計画に際し、 初代のブリカンが採った最も手っ取り早い方法が、カトリックの妻を迎える事だった。 この意志はそうとう固かったものと見え、本人だけでなく一族の全ての妻を 当時のカトリック世界から迎えている。 彼女たちの多くは、宮廷の中でも末席にある地方貴族の娘、 領主たちが「世界の果てに連れて行かれても大して気にならない」程度の者たちであった。 実際、この時期のマニク家に嫁した者に、王女や公女は見あたらない。 マニク家の治めるマヌィチが小国だったこともあって、 彼女たちは比較的速やかにこの地の支配階級にとけ込んだようである。 話題に飢えている宮廷人たちにとって、未知の世界からの客人は良い刺激になったのかも知れない。 2代目の当主レスペンディアルによって異端扱いされ処刑された一人を除き、 彼女たちの多くは長命を享受し、宮廷内で力を保ち続けた。 宮廷人とは、時勢に敏感な人々でもある。当主の妻や母という肩書きを持つ女たちが、 主流になるのにはそれほど時間がかからなかった。 初代の当主ブリカンは、自らの組織した修道会によって 社会の「下から」の改宗をなそうとした。 一方、カトリック世界から迎えた妻たちに宮廷内で力を与えることにより、 「上から」の改宗にも成功するのである。 何時の世も、社会の趨勢を作るのは女であると理解していたのであれば、 ブリカンは相当なやり手であったと言えるかも知れない。 #br ** 4代 ベレル(1123-1125) [#z17c7eea] 3代目の当主、中マニク家のアスクカダルより2つほど年長であったベレルは、 マヌィチにおける自らの勢力を確立していた。 #ref(hinkonC8.jpg,left,nolink) &size(10){西マニク家の系図。4代から6代まで}; アグネスカ・ナコニットとの間に産まれた5人のうち4人が成人を迎え、 アグネスカ・ナコニットとの間に産まれた5人の男子のうち4人が成人を迎え、 一族の繁栄という面からも西マニク家の力は揺るぎないものになっていたのである。 中マニク家の当主でもあるカンダクの影は、薄くなる一方であった。 1123年、当主になったベレルが最初にしたことは、 息子カンダクをイティル伯に封じることであった。 ハザール公には他に封臣はなく、これは事実上の後継指名でもあった。 1125年 関係が悪化というよりは希薄化していたハンガリー王との関係を解消し、 ベレルはクロアチア王に臣従先を変える。 支配体制を確立したと思ったのもつかの間、同年に病を得たベレルは そのままあっけなく死んだ。51歳だった。 息子を後継に指名しただけで死んだベレルには「中継ぎ」の印象が強いが、 次代に起きる大改革、すなわちサリカ制への移行と親族偏重主義、クロアチア王への接近は、 すべてこのベレルが考え、息子にその実行を託したのだと言われている。 以後数百年にわたる繁栄の基礎を築いたという後代の史家の評も、 やや大げさではあるが、当たっているのかも知れない。 #br ** 5代 カンダク(1125-1166) [#j4e8897e] ハザール公に即位したカンダクは、即位直後に念願の改革に着手する。 その一つが、選抜制からサリカ法への継承法の変更であった。 東マニク家の嫡流は既に絶え、中マニク家の勢力も衰退する一方とあっては、 「これからは西マニク家の男系のみが継承権を有する」としたカンダクの決定に、 異を唱える者はなかった。 カンダクはまた、継承順の基準を生まれの早さではなく、候補者の実力に置くと決めた。 サリカ法を採りつつ、これまで慣れ親しんだ選抜法を組み合わせることによって、 流血や追放無しでこの改革を着地させることに成功したのであった。 サリカ法+選抜法というこの継承法には、もう一つ利点があった。 部族制の社会では、実力とはすなわち武力である。 候補者間で決闘などすれば、誰の目にも明らかな形で継承者を決めることができた。 しかし時代は、それなりに文明化した中世である。 社会的な地位や威信といった、目に見えない力が大きくものを言う時代であった。 すなわち、現統治者が後継者候補の地位を上げ下げすることによって、 継承順に介入することを可能としたのである。 カンダクはこの法を定めることで、後継者間の無用な争いを避けようとしたのであった。 1126年 カンダクは兄デュルグレルを、カトリック化なったクマの地の伯に封じる。 それは、カンダクの治世を特徴づける、親族偏重主義の始まりでもあった。 以後の数年間は、イェルサレム奪回を目指す十字軍が提唱され、 クマン族から離反したサルパ支族を討ち、グルジア王と小競り合いがあった他は、 さしたる出来事もなく過ぎる。 だが運命は、予想外の方向にマニク家を導くのであった。 1130年 クロアチア王 死去 封臣たちの選挙により、カンダクが新王に選出されたのである。 ''ハザール公からクロアチア王へ'' 国王の破門、封臣の離反、外征の失敗と、 下り坂を転がり落ちる勢いであった当時のクロアチア王国は、 直轄領が1、封臣の伯爵が3という弱小勢力にまで落ちぶれていたのである。 この危機的な状況を打破すべく、国王は「封臣のうち最も有力な者」が継ぐと定められる。 地域勢力の寄り合い所帯であれば、この制度は機能したであろう。 ハザール公、すなわち先代ベレルによる臣従は、これを崩してしまったのである。 公位を持つ者が国王以外ではカンダクのみという状況では、対等な選挙は機能しない。 ほとんどなし崩し的に、カンダクはクロアチアの国王に登り詰めてしまったのであった。 即位後しばらくして、継承法をマニク家のそれに変更したことはもちろんである。 カンダクがクロアチアの王位を狙っていたのか、そうではなかったのかについては、 未だに良くわかっていない。 先代のベレルは、王位の可能性に気づいていた様である。 しかし、この後の歴史が示す様に、マニク家の人々が欲していたのはグルジアの王位であって、 クロアチアの王位では無かった。 着実にマニク家が支配体制を確立するカフカスの地とは対照的に、 クロアチアの地はほとんど放置に近い扱いを受ける。 ハンガリーとビザンツの衰退が重なり、 この地はこの後数世紀に渡って権力の空白地帯と化すが、 その原因は一に、クロアチア王となったマニク家の無関心に起因するのであった。 #ref(hinkonC5.jpg,left,nolink) &size(10){カンダク時代のクロアチア。関連のある伯爵領も合わせて示す}; 象徴的な出来事が、即位直後に起こっている。 カンダクは長子のエルダリをザフルミア伯に封じ、宮廷を故郷であるアラニアに戻したのだ。 先王の代からの廷臣たちは、嫌々ながら王に従ったと言うが、 まるで異国に連行される思いであったろう。 そしてこれ以後、クロアチア王の都がクロアチアの地に戻ることは無かったのである。 1136年 クロアチア王となり新たな活力を得たカンダクは、 黒海の北岸を支配していたクリミア支族に宣戦。アゾフ部族、ターナ支族との争いになった。 1138年にはクリミア支族を平定、翌1139年にはアゾフ部族を滅ぼし、 アゾフとターナを合わせた3領を新たに有する事になる。 これに、独立伯であったイェゴルリクを滅ぼして得た地を加え、 カフカスにおけるクロアチア領は大きく広がったのである。 この地の覇権は未だクマン族のものであったが、マニク家も徐々に力を付けつつあった。 #ref(hinkonC1.jpg,left,nolink) &size(10){カフカスのクロアチア王国}; 戦いのさなかの1137年には、アラニアがカトリックに改宗。 以後アラニアは、「カフカスのクロアチア王」の都として栄える事になる。 アラン人の故地として、アラニアが特別視されるようになるのもこの頃からであるという。 1139年 新たに得た地に、カンダクは次々と親族を送り込んだ。 弟ブレンドタを、クリミア伯に。 次子サロスを、アゾフ伯に。 三男クッダナを、ターナ伯に。 五男グロムを、イェゴルリク伯に。 カンダクの治世を特徴づける親族偏重主義は、ここに一つの頂点を見るのである。 #ref(hinkonC6.jpg,left,nolink) &size(10){信じられるのは血族のみ}; ''アルタ遠征'' 1150年 クリミアの地で住民の反乱が勃発。カンダクは兵を率い、これを平らげた。 翌年、兵を解散させずクリミアの地で冬営したカンダクは、アルタ伯に宣戦したのであった。 アルタはバルカンの北部、アドリア海の出口を占める要衝で、 当時はクロアチア側の封臣と戦争状態にあった。 この時期まではどうやら、宮廷内で「クロアチア派」と「カフカス派」が 綱引き状態であった様である。 前者は王の義務として、クロアチア地方への介入を主張し、 後者はカフカスでの勢力拡張を主張していた。 マニク家とは直接関係の無いアルタ伯への宣戦も、クロアチア派に引きずられての結果であった。 1151年の春を待ってクリミアを発ったカンダクは、 軍勢と共にヘレスポントスを抜け、エーゲ海の島々を越え、ペロポネソス半島を回って、 アルタに上陸した。 戦いで疲弊していたアルタ伯に立ち向かう余力は無く、早々に降伏する。 王は中マニク家の当主カンダクをアルタ伯に封じると、 クロアチア領の情勢には目もくれずにカフカスへと戻って行った。 クロアチア派の廷臣たちは残念がったろうが、 この後の歴史を知れば、より残念であったろう。 カンダクによるこの遠征は、「カフカスのクロアチア王」がヘレスポントスを越えて軍を動かした 最初で最後の機会になるのである。 ちなみにアルタ伯に封じられた中マニク家については、 カンダクの子ブリカンまでは記録が残っているが、その後の行方はようとして知れない。 この地に同化したのか、あるいは別の勢力に追い出されるかしたのであろう。 ---- アラニアに都を遷してしばらく経った頃、カンダクの宮廷に一人の使者が訪れた。 ヴェネツィア共和国の大使であるという。 大使は語った。元首エミヒ・ナ・マニクの名において、わが共和国はクロアチアに臣従を誓うと。 世慣れた宮廷人たちも、さすがにこの時ばかりは驚きを隠せなかった。 #ref(hinkonC9.jpg,left,nolink) エミヒ・ナ・マニク。先々代アスクカダルの嫡子にして、クララ・フォン・ヴァイマールの息子。 中マニク家の一子が、遠いヴェネツィアの地で、元首の地位に就いていたのである。 支配階級の純血主義で有名であったヴェネツィアでは、異例中の異例の出来事であった。 クララはよほど大きな賭に勝った様である。 カンダクはこの誓いを受け入れ、ヴェネツィア共和国はクロアチアの封臣となった。 カフカス以外への介入に消極的なクロアチアは、ヴェネツィアにとって良き君主であった様で、 両者の封建的契約関係が消滅してからも、友好国であり続けた。 1366年にヴェネツィアが西アイル公国に滅ぼされるまで、この関係は続くのである。 この頃、世界では カフカスのクロアチア王が勢力を少しずつ拡大していた当時、 ルーシの平原では諸侯を糾合したペレヤスラブリ侯がルーシ王国を建国。 カンダクの同盟者となっていた。 #ref(hinkonC7.jpg,left,nolink) &br; また遠くイベリアの地では、ジムネス兄弟の諸王国が逆レコンキスタを食らい、 キリスト教勢の衰退が決定的となっている。 イベリア半島は、セルジューク勢とムラービト勢により分割される時代になったのである。 #ref(hinkonC4.jpg,left,nolink) &size(10){レコンキスタの敗北。赤い印がキリスト教勢}; &br; ---- カンダクの治世も、40年近くになろうとしていた。 この間、ヴェリア伯(旧クロアチア)が独立し、マヌィチの改宗に成功し、 封臣のクマ伯がポーランドと争ったが、ほどなく和解をするなど、争いはなるべく避け続けた。 だが鉄の結束を誇ったマニク家の血族が、綻び始めたのである。 1160年 クリミア伯が独立 宣戦を伴わない独立であったため、カンダクはこれを見逃した。 いずれは戻って来るであろう、周りにはその様に言った。 人の好いカンダクは、心からそう思っていた様である。 1165年 アラニアの南のカヘティ伯を臣従させると、 これが最後の仕事だと言うようにカンダクは息を引き取った。64歳だった。 4代のベレル、5代のカンダクの2人によって、西マニク家による支配体制は確立した。 クロアチア王位を得るという幸運にも恵まれ、「アラン人の王国」は拡大したのである。 カンダクの定めに従いクロアチア王位を継いだのは、次男のサロスである。 だが彼は、晩年の父のような穏やかな治世を享受することはできなかった。 サロスの治世は、度重なる親族の離反で彩られるのである。 &br; [[プレイレポ/カフカスに福音を(マヌィチ伯 マニク家)]]