*ローマ十字軍 [#z1585771] 16歳にしてイベリア半島で最も大きなキリスト教国の王となったディニス。 摂政アルヴァロは隠居して本来の領地に戻り、国王による親政が始まる。 2年後、18歳となったディニスはバルセロナ公の娘ヴァレンシアと結婚。 王妃はすぐに懐妊し、翌年には長女ウラカを出産した。 1134年、隣国アルカンタラの女伯マリアナ・ディ・ムルタが ポルトガル王への従属を申し出、これをディニスは快諾。 アルカンタラはポルトガル王国の一部となった。 しかし翌年、マリアナが死去し伯爵が代わると、 突如アルカンタラはポルトガルに対して宣戦布告した。 この反乱はすぐに鎮圧され、アルカンタラは王領となる。 #ref(dv6-1.JPG,nolink) その後の数年は、内政に費やされた。 新領地に大しては大々的な投資が行われ、税収もそれに付随して伸びた。 移民によって人口は増加し、特にコンポステラには多くのポルトガル人が入植した。 しかし、エル・ビエンソで発生した腸チフスの禍がリスボアにまで伝わり、 国中が恐怖に陥る。これを神の試練と考えたディニス王は カスティーリャ王ライムンドの要請を受けて十字軍に参加し、 エジプト王国に宣戦布告した。1141年のことである。 #ref(dv6-2.JPG,nolink) リスボンから出航したポルトガル軍1万はローマへ向かった。 ローマは昨年の異教徒による攻撃でイスラム支配下に入っていた。 ディニス率いる十字軍は、ナポリの戦いにおいてイスラム軍6000を打ち破り、 イタリアからイスラム勢力をほぼ駆逐。大いなる都ローマを解放したディニスは、 市民から救世主のごとく歓迎される。1143年、エジプト王国は和平に応じ、 ローマは正式にキリスト教の支配下に戻った。またナポリでは住民の一斉改宗により、 東方正教からカトリックが多数となった。また、リスボアの疫病は同年沈静化する。 #ref(dv6-3.JPG,nolink) この十字軍の成功でディニスは大いに名声を高めたが、 同時に莫大な負債を課せられることにもなった。 領内のいくつかの施設は売却されるか、維持費の問題で破壊されてしまった。 1144年、ディニスはローマに教皇庁を再建し、支配権を返還。 新教皇はポルトガル王こそ信仰の体現者であり、全キリスト教徒の模範であると賞賛。 ディニスのキリスト教世界における権威は頂点に達した。 1145年、コインブラ伯爵アルヴァロ・デ・コインブラ死去。享年74歳。 父同然であった大叔父の死報せを聞いたディニスは深く嘆き悲しみ、 彼を手厚く葬らせた。これによりコインブラもまた王領となり、 ポルトガル王国の全ての領地はディニスのものとなった。 最早過去の封建制度の必要はなくなり、国王の絶対的権力を保証する 中央集権的な国法が採用された。 「国王の権力は神に与えられし物なり」 また同年、負債の返済は満了し、領地の開発が再開される。 廃棄された工場や砦は再建され、王国は往時の繁栄を取り戻しつつあった。 イタリアからもたらされた新しい技術も国内を豊かにした。 王国内に残る唯一の問題は、男子後継者の不在だった。 ディニスと王妃ヴァレンシアの間には4人の子がいたが、 いずれも女子であり、王子の誕生が切望されていた。 だが、年月を経るにしたがって期待は徐々に薄れていった。 華やかな宮廷の裏では、ある陰謀の計画が少しづつ組み立てられていく。 1155年3月、ディニス王の40歳の誕生日を目前に、王妃ヴァレンシアは死去した。 城の階段で足を滑らせ、頭を強打したのが原因だった。 そのわずか数日後、ディニスとイングランド王の妹エルフスリス・デ・ブルトゥイユとの婚礼が執り行われる。 両者には親子ほどの歳の差があり、あまりにも不自然ではあったが、誰もがそのことを表立っては口に出さなかった。 同年12月、王子ドゥアルテの誕生によって後継者問題は解決する。 #ref(dv6-4.JPG,nolink) 1161年5月、ディニスはトスカナ公国の属領サンティアゴに対して宣戦を布告。 ガリシア地方の完全な支配権を得ることがその目的だった。 豊かなサンティアゴは2000以上の軍を集めたが、ポルトガル軍4000の前には無力だった。 9月にはサンティアゴはポルトガルの支配下に入る。 #ref(dv6-5.JPG,nolink) 一方イタリアでは、王領オルベッテロがトスカナ公の攻撃に晒されていた。 トスカナの4000の軍に対してオルベッテロの防衛隊は3000。決死の戦いを続けていた。 防衛隊がじわじわと追い詰められていく中、9月下旬にナポリからディニス率いる援軍7000が到着。 戦況は一気に逆転し、トスカナ公国軍は敗北。合流を果たした軍は周囲を制圧した数ヵ月後、 トスカナの首都フィレンツェに向けて動き出した。 「行け!フローレンサを目指すのだ!」 「行け!フロレンサを目指すのだ!」 1162年5月、目的地へ辿り着いた兵士たちが見たのは、 疫病によって死の都と化していたフィレンツェだった。 「これがイタリアで最も美しい都市とは…信じられん」 #ref(dv6-6.JPG,nolink) フィレンツェは数ヶ月で落ちた。トスカナ公との和平が成立したのはその数日後である。 これによりサンティアゴは正式にポルトガル王国領となり、ガリシア地方は完全に併合された。 しかし、イタリアの王領は兵士らの略奪によって荒廃を極め、 一時的に王国の歳入は減少することになる。 1165年、リスボアの宮廷にイングランドより急使が訪れた。 「イングランド、ウェールズ及びブルグント国王ウルフ陛下の崩御により、 甥にあたるドゥアルテ殿下が王位を継承なさいました。」 ポルトガル王太子ドゥアルテは9歳にしてイングランド王に即位した。 #ref(dv6-7.JPG,nolink) #ref(dv6-8.JPG,nolink) 続く... 前章''[[../ポルトガル王国の成立]]''を見る ''[[プレイレポ/ここに地果て、海はじまる]]''へ戻る