*レコンキスタ再燃 [#v02e6582] コインブラの地を直轄領として得たポルト公サンショ、この年29歳。 軍事に天才的な才能を持っていたにもかかわらず、 過去の戦役により脚に重傷を負い、指揮官として戦場に立つことは叶わなくなった。 妻ギレルマとの間には一男二女がいたが、関係は冷え切っていた。 長女エリザベトと長男サンショはブランガンサ伯の宮廷へ留学させていた。 そんなわけで、彼の関心はもっぱら策略と末娘アナに向けられていた。 サンショの受け継いだものは、率直に言って負の遺産以外の何者でもなかった。 巨額の借金、荒廃した土地…。貧しい漁村でしかないコインブラには 金貸し業者と盗賊団が居つき、これがさらに領地を蝕んでいた。 まずサンショが行ったのはイェルサレム首長との和平である。 ポルトの軍はすでに大きく消耗しており、これ以上の戦いは不可能と判断したためだ。 1099年3月に白紙和平が成立し、軍は領地へと戻った。 サンティアゴの占領も解かれたが、領有主張権は残った。 11月、レプティス・マグナで大規模な宗教反乱が発生。 キリスト教徒の統治に対する不満を持つ暴徒が至る所で蜂起した。 サンショはこの反乱に激怒し、徹底的な弾圧を加えた。 結果、異教徒の過激派は処刑され、多くの住民が国外へ逃亡した。 領地は荒廃し、税収は激減してしまった。 しかしその代償として、レプティス・マグナは未だアラブ人が多数ではあるものの、キリスト教を受容した。 #ref(dv3-1.JPG,nolink) 1100年2月、ポルトに課せられた負債は完済された。 コインブラ一州ではとても返せるような額ではなかったが、 ポルト公国の収入であれば、1年で返済が可能だった。 こうして財政難を克服した公国は、次の目をさらに南に向ける。 11月、同盟国トゥールーズ公国がムラービト朝の攻撃を受ける。 ポルトに対して救援の使者が送られ、これをサンショは受諾し、 リスボアからラモン・デ・ロカベルティ率いる3200人の部隊が エヴォラに向けて侵攻を開始した。 エヴォラは一月で落ちた。防衛軍がほとんどいなかったので、 軍はほぼ無血で城内に入り、モーロ人の女首長に統治権を認めさせた。 ラモンはさらに東進、サラマンカを攻撃し、これを攻略する。 #ref(dv3-2.JPG,nolink) 「モーロ人どもを地獄に送ってやれ!」 ムラービト朝は北部の拠点を失うことを恐れ、 ポルト側の和平提案を無視し、何度も反撃を試みたが、その度に撃退された。 元帥ラモンはこの防衛戦の最中に重傷を負い、指揮官としての能力を失った。 もっとも、数ヵ月後には完全に回復し、元帥としての任務を全うできた。 魔術師との取引が噂されたが、その功績を考えれば、誰も面と向かって批判はできなかった。 1103年1月、遂にムラービト朝との和平が成立。 エヴォラ、サラマンカの支配権はサンショのものとなった。 サンショにとっては17年前の雪辱を晴らす結果に終わった。 この戦争にもまた莫大な戦費がかかったが、 これを返済するのに必要な時間はそれほど多くはかからなかった。 1104年6月、ポルトにおいて身分制議会コルテスが招集された。 財政危機下における各身分の協力を得るためであり、 これによりサンショ公爵の権力はいくらか失われたはしたものの、 国家の負債は消え、新たな事業への投資が可能となった。 #ref(dv3-3.JPG,nolink) 以降、サンショは内政に専念し、各領地に道路、漁港、営林署など 基本的なインフラと産業のための設備を建設した。 精力的に土地の開発を推し進め、土地は豊かになっていった。 故郷であるコインブラの地もまた同様に発展させるつもりだった。 しかし悲劇が突然訪れ、サンショによる土地開発はこれが最後となった。 1105年、サンショは古傷の悪化から病気を患い、それが肺炎に悪化した。 病気治療を拒まれた呪い師の呪いであるとも噂された。 統治能力の低下により、直轄領の統治効率は低下したが、 人材の不足から新たな封臣を任命することはできず、歳入は低下した。 さらに同年11月、ポルト公国はアフリカにおいてキレナイカ首長国の宣戦布告を受ける。 サンショはラモン元帥をレプティス・マグナへ派遣し、防衛を命じた。 兵力は500人余り。対してキレナイカ軍は2000を越える勢力で襲来した。 ラモンは惨敗を喫して本国へと逃げ帰ったが、既に新しい元帥がその職についていた。 サンショはわざとラモンを死地に送り込み、失脚させたのであった。 実際は彼の戦死を狙っており、憎しみの原因は妻ギレルマとラモンの密通に対する嫉妬とも言われる。 レプティス・マグナは再びイスラム勢力下に入った。 #ref(dv3-4.JPG,nolink) 1106年3月30日夕刻、ポルト公爵サンショ1世、肺炎により死去。享年37歳。 魔術治療を拒否し、神の僕たらんとした末の最期だった。ポルト公としての治世は26年。 精力的な征服活動と土地開発、狂信的でさえあった信仰心により、 民衆は彼を"熱烈公"(O Ardente)と呼んだ。遺産は13歳の息子サンショが継承した。 民衆は彼を"熱烈公"('''O Ardente''')と呼んだ。遺産は13歳の息子サンショが継承した。 #ref(dv3-5.JPG,nolink) #ref(dv3-6.JPG,nolink) 続く... 前章''[[../南方の黒い影]]''を見る 次章''[[../追放と離反]]''を見る ''[[プレイレポ/ここに地果て、海はじまる]]''へ戻る