[[ブリタニアの再興]] **序 [#l97447d0] 写本製作者註:この部分の記述は最初期(12世紀後半)の写本には存在せず、14世紀以降の写本から登場する。後世に付け加えられたものと考えてほぼ間違いがない。((ネタバレ(つっても大したものではないですしここに入るのはてけとーな捏造文なのですが)になるのでここは後で書きます。決してまだ文章考えてないからじゃないよ!)) **第1章 [#nffc7832] レンヌ家はその位置からノルマンディーとの縁が深い。 初代ノルマンディー公であるロロの妻(次代のノルマンディー公を産んでいる)はレンヌ家の女性であったし、 レンヌ家2代目のブルターニュ公ジョフロワの代ではノルマンディー公家と二重結婚を行うほどであった。 #ref(bre.png,nolink) #ref(nor.png,nolink,102%) ……強い姻戚関係とはすなわち強く干渉しあうことを意味するのであるが。 ‥‥‥強い姻戚関係とはすなわち強く干渉しあうことを意味するのであるが。 それぞれの当主没後の権力争いに互いに積極的に介入しあったことで両家の関係は急速に悪化していく。 1040年、ブルターニュ公アラン3世没。一説にはノルマンディー公ギョームが、後見人としてノルマンディーで権勢を誇るアラン3世を疎んじて毒殺したという。 彼の後を継いだのは8歳の幼子、コナン2世。 彼が成人に達するまでアラン3世の弟、ペンティエーヴル伯エドゥアールが摂政としてブルターニュを統治することとなる。 ……もちろん成人後も権力を手放さなかった。 ‥‥‥もちろん成人後も権力を手放さなかった。 当然の帰結として権力闘争が起こる。 叔父と甥との争いは周囲の干渉を招き、長く続いたが、1057年にコナン公が叔父を捕らえて投獄することで一応の決着をみた。 また、1064年にはギョームが指嗾して反乱を起こさせたことに対する報復として戦争が起こっている。 この戦争は翌年には互いに戦果無く終結した。 この戦争は翌年にはややコナン公に不利な条件で和睦が成立した。 ((どうもこの戦争ではハロルド(当時は伯爵)がギョーム側に参加していたらしく、かの有名なハロルドがギョームのイングランド王位継承権を承認したという逸話はこの頃のもののようです。それとどうやらコナン2世はぼろ負けしてるみたいです。こっそりお詫びして本文を訂正。)) **第2章 [#wdd1f09f] 1066年1月5日、イングランドのエドワード懺悔王が嗣子なくして崩御し、王妃の兄((と書くと語弊がありますが、諸侯中最大の勢力者+諸侯会議で推戴された、が主な理由です。))ハロルド・ゴッドウィンソンが即位。 それに対し弟トスティが異議を唱え、ノルマンディー公ギョームは自身こそが後継者であると主張。 1066年1月5日、イングランドのエドワード懺悔王が嗣子なくして崩御し、遺言により王妃の兄((と書くと語弊がありますが、諸侯中最大の勢力者+諸侯会議で推戴された、が主な理由です。))ハロルド・ゴッドウィンソンが即位。 それに対し弟トスティが異議を唱え、ノルマンディー公ギョームは自身こそが後継者であると主張。 周辺諸国の利害も絡み合い、複雑な対立関係が形成されていた。((比較のため独立させてますがノルマンディー公は仏臣です。ハーラルは史実ではハロルドと戦闘、敗死しましたがゲームでは遠い+クレーム持ってるだけで敵対はしてないので大抵攻めてきません。)) #ref(aq.png,nolink) この他にもハロルドはランカスター等北部の大諸侯、ノルウェー王ハーラルといった敵を抱えている ここに際し、コナン公はハロルドとの間に反ノルマンディー同盟を締結。 宿敵ギョームがイングランド侵攻の準備に苦心する隙をつき、親ノルマンのブルターニュ諸侯の制圧を開始した。 ハロルドからの資金援助を活かして軍備を整えたコナン公は巧みな挑発で諸侯を暴発させて足並みを乱し、各個撃破に成功する。 #ref(被宣戦.png,nolink,60%) ここにブルターニュを統一し、強大な君主権を打ち立てることに成功したのであった。 多年に渡った親族や隣国の干渉の排除を成し遂げたコナン公は感涙にむせんだという。 予定していたブルターニュ諸侯の援軍が得られなくなった上に、ノルウェー王ハーラルが突如病を得て遠征を断念したことでハロルドの治世は安定してしまう。 独力でのイングランド侵攻を断念せざるを得なくなったギョームは歯ぎしりしつつコナン公への報復を誓った。 その後の彼はより積極的にフランス国内での勢力の拡大に努める。 即位当初からの休む間もない権力闘争に勝利して人心地がついたのであろうか、 1070年、コナン公は33歳にしてようやく結婚を決めた。 相手は海峡の対岸、ブルターニュとルーツを同じくするコーンウォール公の姫君であった。この結婚は互いに有力な同盟者をもたらすと共に、 統一間もなく未だ各地方間で差異が大きかったブルターニュに、ブリトン人の末裔としての強い民族意識を醸成させることに役立ったようである。 統一間もなく未だ各地方間で差異が大きかったブルターニュ((現代でも方言に結構な差があるらしい))に、ブリトン人の末裔としての強い民族意識を醸成させることに役立ったようである。 #ref(Conan&Aelwyd.png,nolink) 後に英王ハロルドが急逝し、あわや再びの後継争いか、と思われたときにもブルターニュとコーンウォールが一体となって 王子エドマンド-軍才に優れ、将軍として数々の戦功を立てていた-を支持したことで王国の安定を維持している。 #ref(Edmund with saxonCOA.png,nolink) **第3章 [#gf3fdaa9] しばしの穏やかな時が過ぎた。公夫妻は仲睦まじく過ごし、1男2女の子宝に恵まれる。 そこに急報が舞い込む。フランス一の大諸侯であるアキテーヌ公が王に反旗を翻したというのだ! 事情は以下のようなものであったらしい。 兼ねてよりフランス王フィリップとアンジュー公ジョフロワの険悪な仲は知らぬ者が無かったが、ある日王がアンジュー公を公然と侮辱、激怒した公が挙兵の準備を開始する。 いざ挙兵を宣言せんとする前日、公国内の裏切り者の存在もあり王が奇襲に成功、アンジュー公を追放する。 アンジュー公は各地に王の横暴を訴え、アキテーヌ公がそれに応えて反逆を決意、何人もの諸侯がそれに同調する。 ここに内乱が勃発した。 #ref(Philip.png,nolink,80%) フランス王フィリップ 暗君として名を残す。 #ref(Aquitaine..png,nolink,80%) 義の人、アキテーヌ公ギー その強大さが他の有力諸侯の嫉妬と猜疑心を招く。 #ref(vendome.png,nolink,80%) ヴェンダム伯、後にアンジュー公ギー フランス王に内通して主君アンジュー公を破滅させ、その功でアンジュー公位を与えられた直後に反逆。 その変わり身の早さには誰もが驚きを通り越して感心せざるを得なかった。 #ref(Toulouse.png,nolink,80%) トゥールーズ公ギョーム アキテーヌ公に同調すると見せかけ、軍が出払った後のアキテーヌ公領を攻撃。 仏王軍の戦局を好転させる。 報告を受けたコナン公は軍の召集を命じる。即位時の経緯もありイングランド王エドマンドは全面的な支援を快諾。 1075年3月、ブルターニュは宿敵ノルマンディーと決着をつけ、アキテーヌ公を救うべく。イングランドは王位僭称者を黙らせるべく、フランス大乱に参戦した。 #ref(大乱.png,nolink) ドイツ王は同盟者であるフランス王を助けるとの名目で侵入、各地を占領して居座っている 1075年初頭には主な合戦はアンジュー周辺で行われており、がら空きの南仏ではその本城であるボルドーの城壁にまで トゥールーズ公軍が迫るほどにアキテーヌ公は追い詰められていたが、 イングランド・ブルターニュ連合の参戦により南仏に取って返し、直ちにトゥールーズ公軍を領内から駆逐している。 **第4章 [#y0e1c6aa] 悪化した戦況、命令を平然と無視する自軍、どちらの味方か分からない同盟軍に苛立つ仏王フィリップは無謀にも英軍の大陸側本拠、ブルターニュへの遠征を決意。 #ref(決戦.png,nolink) イングランド軍8000とフランス軍5500が平原で激突。 英王エドマンドは仏王フィリップを一騎討ちの末討ち取った。 エドマンドの武名は大陸中に轟いたという。 そもそもの発端が王の身勝手であったため士気の低かった王側諸侯はこれを期に完全に王国を見捨てる。 以後はただ順々に王領を制圧していくのみとなった。 翌年3月、パリで結ばれた和約の内容は以下の通り。 ・アキテーヌ公領は完全な独立を認められ、仏王のアキテーヌ公への宗主権は失われる ・アンジュー公(元ヴェンダム伯)の地位は正式に承認される ・前アンジュー公の後継者にはベリー公位が与えられる ・ライム司教領(仏王に反乱し独軍に占領されていた)の税収は独王が得る ・仏王のブルターニュへの宗主権主張を取り下げる ・仏王はノルマンディー公ギョームのイングランド王位継承権主張を承認しない 以上と引き換えに王子アントワーヌは王位の継承を認められた。((そもそもカペー家は弱小だったから王に推戴されたわけで、それが無理のある領土強奪をやらかし、当主が戦死、跡継ぎは幼年、おまけに直轄領は全て占領されてる、と来たら王位の継承無理じゃない?と思います。脳内保管したらこんな感じになりました。ただし、実際のプレイではイングランドがノルマンディーをぼこって王位のクレーム放棄を条件に講和してしまうのが怖かったため、全土占領だけして王同士で講和してもらいました。おかげでこっちへのクレームを放棄させられず、後に宣戦されることになりましたorz)) 宿敵ギョームを討つことこそ果たせなかったものの、コナン公はこの戦で領土の拡張に成功する。 また英王エドマンドは大いに威信を高め、国内のノルマン人勢力を後退させた。 **第5章 [#ga650dc6] これ以後のコナン公は持病の癲癇に苦しむようになった。 度々発作を起こし、始めのうちは単なる補佐であった公妃アリードが後には完全に執務を代行するようになる。 #ref(marc.png,left,around,nolink) 戦から10年ほど経ったある日、発作がついに彼の命を奪ったのだった。 公位を継承した息子マルクは14歳であった。 #ref(inherit.png,nolink) コナン公は8歳の若さで父を継ぎ、親族や隣国の横暴に悩まされ続けた。 息子の成人前に死す心残りはいかばかりであったろうか。 [[次の栞>../ブリタニア列王史 第13巻 第6章]] [[本を閉じる>ブリタニアの再興]]