**トヴェリ公 Thomas(1088〜1132) 1107年ごろの勢力図(再掲) &attachref(s-1107.jpg); 黄:トヴェル 青:ベルオゼロ、黄緑:スモレンスク、橙:リャザン、紺:ブロンスク、黄土:ブルガール(イスラム国)、灰色:他のイスラム/パガン勢力 ***Thomasの治世前半〜ThomasとIvanの憂鬱 1107年、Thomasは第2代トヴェリ公となった。 彼は万能型であった先代Rodislavとは違い、能力は極端であった。 &attachref(s-00018.jpg); 陰謀は17もあるのに外交はわずか1(即位から数年後のThomas) Rodislav逝去でやや足踏みしたコストロマ攻めも敵方の抵抗は少なくすぐに終結した。 ノヴゴロドを手にしたことで収入には大きな余裕が生まれており、教会や学校の建設が相次いだ。 しかし、先代の治世末期に臣下となったヤロスラブリ伯はThomasとはソリが合わず、忠誠心を低下させていた。 そんな中ついに強硬手段に打って出てきた。 &attachref(s-00020.jpg); ''Thomas''「臣下の分際でふざけおって!余が法規であり絶対ぞ!」 このThomasの対応にヤロスラブリ伯がついに挙兵。その乱は直ちに鎮圧されたが、 その後も次々に臣下の反乱が発生、Thomasはその対応に追われた。 年々巨大化するブロンスク公と張り合うためにはこの問題を何とかせねば…。 1110年、Thomasは方針を改め、臣下の要求する封建的契約法に国内法を転換し、諸侯の懐柔を図った。 この苦渋の措置は効を奏し、以後反乱が発生することはなかった。 国内問題を解決し、ヤロスラーブリ公の称号も獲得したThomasはいよいよ外征の準備に取り掛かった。 翌年初頭、まずは独立伯のペレヤスラブリ・ザレースキィを攻め、激戦の末これを奪取。収入の良い土地のため、直轄領に編入した。 次にトヴェル周辺に残存するベルオゼロ公領奪取に乗り出すことに決定した。 ベルオゼロ公Ivanの反撃を抑えてヴェリーキエ・ルーキを獲得したところで借金が膨らんだため講和。 Thomasが借金返済をしている間、Ivanは不幸にも別のルーシ諸侯にも目をつけられ袋叩き。 ガリーチ公、スモレンスク公に四方から攻撃され大敗。虎の子のキエフ勢は消滅。 キエフの街は略奪され、ベルオゼロ公位はガリーチ公(元を辿れば分家筋…)に奪われた。 しかし、ノブゴロド公を名乗るようになったIvanの不幸は終わらない。 Thomasが再び行動を開始、目標はトルジョク。ここを奪えばノブゴロド公位を正当に要求できるのである。 再びThomasと剣を交えることとなったIvanだが、今度はただ領地が奪われるのを眺めるだけであった。 結局戦争は正味3か月ほどで終わり、トルジョクとノヴゴロド公位はThomasのものとなった。 さらにIvan(今度はプスコフ公)の不幸は続き、異教徒に宣戦され首府キエフを奪われてしまった。 Thomasはすかさず動き、キエフを横取りした。まさに外道。 Ivanの方はリヴォニアに退いたが、もはや臣下は一人もおらず、彼は数年後失意のうちに亡くなった。 ***Thomasの治世後半〜ブロンスク公の猛威 その頃、ブロンスク公は英邁な君主の元で急速に勢力を伸ばしていた。 かつて一大勢力を築いていたブルガール国を1117年にはアラブの飛び地に追放し、 さらに遠方のホラズムとも戦争を開始していた。 また、グルジア王国もセルジューク朝崩壊に伴って旧クマン部族領に進出し、北上する機会をうかがっていた。 &attachref(s-1117.jpg); 黄:トヴェル 青:旧ベルオゼロ-プスコフ、黄緑:スモレンスク、橙:リャザン、紺:ブロンスク、水色:グルジア、茶:ガリーチ、灰色:他のイスラム/パガン勢力 ブロンスク公はなおも戦争を続け、破竹の勢いで進軍していたが、Thomasはまだその事実に気づかず、 持ち前の冷酷さを発揮し住民をいじめたり、残存する独立伯・異教徒の所領獲得に精を出していた。 だが、ついに気づく時がやって来た。 1124年、ルーシ内最後の異教徒領であったスーズタリが陥落した。 ''Thomas''「ついに異教徒どもからルーシを取り戻したぞ。さて、次はブロンスク公領を切り崩すかな〜」 &attachref(s-1124.jpg); ''Thomas''「…」 旧ブルガールの多くは荒れ果てている上に元々収入が少ない地域ばかりだったが、 ホラズム地域は違う。屈指の高収入地域。 そしてホラズムの南はビザンツが支配…つまりは進軍の矛先はルーシ、しかも連中が請求権を持ってるのは、 トヴェリ公領。 1127年 &attachref(s-00019.jpg); (場所はトヴェリ公領の一番東) トヴェリとブロンスク、ルーシの二大勢力決戦がついに勃発した。 しかしこのとき、トヴェリ公の宮廷で戦の心得があるものは皆無であった…。 1年前、軍事13の元帥が病死し、元帥の職を継いだ最も優れた廷臣でさえ軍事6という有様。 Thomasの外交力不足を補うべく、多くの人材を軍から遠ざけてしまっていたのだ。 不安を隠せぬままノヴゴロド勢を筆頭に直轄領から22000を集め、ブロンスク公本拠に進軍した。 が、その後は悲惨だった。軍事16のブロンスク公と軍事19の敵方元帥の20000に迎撃され 壊滅。 四散した主力軍の指揮官のうち元帥は戦死、宰相は重傷(傷が悪化し1年後死亡)という大損害を被った。 残るは戦場から離れていたため間に合わなかったキエフ勢7000のみ、敵方は少なくとも30000。 この状況下で一発逆転を狙うには敵主力が離れた隙にブロンスク公直轄地をすべて押さえるしかない。 幸運にも直轄領は君主の陰謀の低さのおかげでわずか2か所。 敵主力がトヴェリ公直轄地を次々に略奪するのを耐えつつ、包囲を敢行した。 この賭けはトヴェリ公国に逆転勝利をもたらした。 外交交渉ではガーリチ・メルスキー領の返還といくばくかの賠償金を獲得することに成功した。 &attachref(s-00021.jpg); ※画面中央の大部隊がブロンスク軍主力2万。赤の上、白の左がガーリチ・メルスキー。 あと一歩というところだった…。 (ちなみにトヴェリとブロンスクはどっちも領地色が茶色のためごっちゃになってます) 戦争は終わった。だが、キエフ以外の直轄都市はすべて略奪され、軍資金は大きくマイナスと、 トヴェリ公国に大きな傷跡を残した。しかし何よりも思い知ったのはブロンスク公国の恐ろしさである。 ルーシ建国の最大の障壁は彼らだろう。 最大の危機を乗り切った反動だろうか、翌1132年、Thomasは静かに息を引き取った。享年44。 公位は長男Leoが継承した。 &attachref(s-00022.jpg); --------------------------------------------------------------------------------- …時は戻って1123年、かつてルーシに一大勢力を築いた旧キエフ公国が滅亡した。 一時期は5も6も公爵位を保持していたが、最後はプスコフ公位だけ、そして終焉の地はプスコフ公位が示す地域でもなく、 ルーシ内でさえもないリヴォニア。最後の当主はVsevolod、わずか5歳の当主であった。 一時期は5も6も公爵位を保持していたが、最後はプスコフ公位だけ。 そして終焉の地はプスコフ公位が示す地域ではなく、ルーシ内でさえもないリヴォニア。 最後の当主はVsevolod、わずか5歳の当主であった。