**トヴェリ公 Rodislav(1069〜1107) ***1080年頃の情勢 &attachref(s-1080.jpg); 黄:トヴェル 青:キエフ、黄緑:スモレンスク(トヴェル伯の主君)、橙:リャザン、紺:ブロンスク、黄土:ブルガール(イスラム国)、灰色:他のイスラム/パガン勢力 ***Rodislavの治世 成人するまではひたすら内政…とはいえ頼みの執事が発狂して収入もいま一つ。 何度も「ご主君との関係を考慮云々」の献言が上がってきたが、ひとまずは主君のもとに留まる。 もちろん出兵要請は全部拒否。なのでしばらくは「ご主君〜」→出兵要請拒否→「ご主君」のループ。 そんなこんなで1085年、ようやく成人。 さっそく「ご主君との関係」を清算するべく行動開始。反逆者の称号をいただきました。 &attachref(s-00010.jpg); このあと教育も完了し、戦僧となる。能力は11/8/11/8(反逆者修正なしだと10/10/10/7)。 ここでいいタイミングにリャザン公から同盟の提案。直ちに承諾。 同盟締結からわずか1か月ほどでリャザン公が「ご主君」スモレンスク公に宣戦布告。トヴェル伯に支援要請が届く。 1086年12月、いよいよ独立に向けた死闘がが始まる! &attachref(s-00012.jpg); と!マークをつけましたが、翌年2月には講和成立。 …まさか受けないだろうと思って無条件講和提案したらあっさり受諾されちゃった。 まあとにもかくにもトヴェル伯はこれで主君なしの独立伯として自立したのであった。 この後、一時期モスクワ公(領地1か所)に忠誠を誓ったが、領地割譲を要求してきたので 拒否し戦争→公をフルボッコにして一部の請求権を放棄させて威信も50ほどゲットした。 一息ついたところで周囲を眺めるとRodislavが即位した時とは情勢がまたもや激変していた。 キエフ公の当主は元々無能だったが、スモレンスク公のように精神を病んでしまい国内は大混乱。 その隙を突いてブロンスク公がキエフ軍を打倒し、キエフ公位を奪取。 旧キエフ公はベルオゼロ公を名乗るも影響力は大幅に低下していた。 そんな中、ベルオゼロ公とフィンランドの異教徒が戦争を開始、本来ならばベルオゼロ側が 負けることなどあり得ないが、先の戦乱で軍が壊滅しており、未だ支配下に残っていた旧ノヴゴロド領は異教徒たちに荒らされつつあった。 Rodislavは当然この機会を逃さず、異教徒が占領した旧ノヴゴロド領を横取り。 1095年頃からヴォディ・オネガ・プスコフなどを次々に獲得し、 1101年にはついにノヴゴロドまでも手に入れることに成功した。 &attachref(s-00015.jpg); ここで威信の値を確認すると320余り。 父伯が果たせなかった隣国ウグリチの称号を請求し、公爵位創設のため宣戦布告、直ちに攻略しプスコフを獲得。 いよいよトヴェリ公となるときが…ん?「称号を創設するには100Gと威信100が必要です」 威信…100…今…20ちょい…。またせっせと月0.数ポイントの威信を集める暮らしに復帰。 ただ、今回は文化伝播のおかげで図書館や学校建設によるボーナスが入ったため1106年末には所定の威信集めを完了。 トヴェル伯Rodislavはトヴェリ公Rodislavとなったのであった。 &attachref(s-00016.jpg); 隣国ヤロスラブリ伯を臣下に加え、その勢力はルーシの中でも指折りとなっていた。 だが、Rodislav公としての治世は長くは続かなかった。 Rodislavの妻はビザンツ貴族の娘Sophiaであったが、夫婦仲は良かったようで6男5女をもうけていた。 そのSophiaが1107年初春に病で死去してしまった。 直後にRodislavも病に倒れ、1107年秋、コストロマ伯領攻めに向かう途中、息を引き取った。享年38。 公爵位はヴォディ伯に封じられていた長男Thomasが継承した。 &attachref(s-00017.jpg); …後のThomas公である。 ***1107年頃の情勢 &attachref(s-1107.jpg); (各国の色は上図と同じです) スモレンスク公は精神分裂病だった先代から優秀な軍事15の有能な君主に代替わりし、 かつての威容を取り戻しつつある。旧キエフ-ベルオゼロ公の勢力はトヴェリ公に領地を横取りされたが、 同時にトヴェリ軍が異教徒勢力の軍勢を壊滅させたのである程度の領地は保持。 ただし北部の所領の大半は貧しいため戦力にはならない。 現在の最有力なのは所領が豊かでかつ英邁な君主が治めるブロンスク公国。 現在最有力なのは所領が豊かでかつ英邁な君主が治めるブロンスク公国。