[[Von Schwaben]] **スワビア及びバーデン公マンフレト(1105~1116) [#odc3cc8c] 1105年にフリードリヒの後を継いだマンフレトはその父と比べて温和な性格であった。 しかし、それは統治方法の変革を意味せず即位早々、当時封臣であったフェラーラ伯とヌーシャルテル伯に対する称号剥奪を試み失敗。 結果としてこの二人の伯爵と争うこととなった。この時、ババリア公爵が敵に回りスワビア公爵に宣戦、ドイツを二分する戦いとなった。 かねてよりババリア公爵の封臣のバーデン伯領を狙っていたスワビア公家はバーデンに宣戦し、これを版図に加えた。 それにより、マンフレトはバーデン公爵もかねることとなった。 なお、フェラーラとヌーシャルテルは彼の息子のドイツ国王ギゼルベルトの手に渡った。 1109年、マンフレトは驚くべき改革を行う。 スワビア公国の継承法を選抜制に変えたのだ。これにより、彼の長男であるギゼルベルトは公爵の相続が不可能となった。 そして継承第一位には、前代の非嫡出児であるベルトホルド・フォン・ホーエンツォレルン元帥となった。 ベルトホルドは元帥として類まれなる軍才を発揮していたので。これに異を唱えるものは少なかった。 この時期、スワビア公国は直轄領のみで構成されていた。 1110年、マンフレトの妻であり前国王ハインリヒ4世の娘、ベルタが逝去した。 喪が明けると、マンフレトはシャンパーニュ公爵領からウフロジーヌ・ド・ブロワを娶った。彼女は同時に宰相にも任じられた。 1112年、前代最後の妻ユスティナが逝去。この出来事は一つの時代が完全に終わったことをスワビア公国内に告げた。 1113年、最悪の出来事がマンフレトに襲い掛かった。 #ref(マンフレトの愛1.JPG,nolink) 彼はその妻を溺愛していた、妊娠中に彼女が流行の服をほしがったので購入しプレゼントした。 #ref(マンフレトの愛2.JPG,nolink) その次の日、彼女は出産に失敗しこの世を去ったのだ。 #ref(マンフレトの愛3.JPG,nolink) 喪が明けると、マンフレトはボヘミア王国からアンナ・プレスミッドを娶った。 ただ、彼女は夫からは一切の愛情を得ることはなかった。 1116年、マンフレトは逝去した。3人の男児と1人の子供がいたが、成人できたのはギゼルベルトと長女ギゼラのみであった。 公国はベルトホルド・フォン・ホーエンツォレルン元帥が継ぐこととなった。 公国はベルトホルト・フォン・ホーエンツォレルン元帥が継ぐこととなった。 #ref(マンフレト死す.JPG,nolink) [[Von Schwaben]]