[[Von Schwaben]] *シュヴァーベン伯 / スワビア公フリードリヒ(1050~1105) [#p9caae48] シュヴァーベンとは、ゲルマン民族の大移動期に現れたゲルマン人の一部族、スエビ族(スウェイビア族)が名称の由来とされているドイツ南西部の一地方である。 1067年の時点でのこの地を治める者はフリードリヒ・フォン・ホーエンツォレルン、成人したばかりの若き伯爵である。 16歳と言えばヤリたい盛りのお年頃である。それに加えてこの伯爵、たいそうな好色であった。 1067年1月12日デュラキオン公国のユーフロシネ・クムノス家令はシュヴァーベン伯爵に嫁いだ。 次の月にルトベルトと名乗る貴族が亡命してきた。男の廷臣がいなかったシュヴァーベン伯は彼を直ちに元帥に任じた。 3月には伯爵夫人が初めての子供を身ごもった。 12月に生まれた娘はメティヒルトと名づけられたが、翌年3月には健康不良のため天に召されてしまった。 メティヒルトの死の6ヵ月後、伯爵夫人は再び子供を身ごもった。 1069年6月12日、長男であるジグフリートが誕生。領内は歓喜の声に包まれた。 フリードリヒ「私は公爵止まりかもしれないが、私の子孫は必ずや全ドイツを統べる王となるであろう!」 この若き伯爵は傲慢で知られていた。彼の所領はたったの一州、さらに彼自身はスワビア公爵の封臣である。 彼の生きている間に王の座など到底手に入るものではなかった。 ちなみに、次の月に伯爵夫人はまた妊娠した。ちょうど妊娠を確認した日に新しく教区長が来たが彼も驚きを隠せずにいた。 1070年8月、彼の主君であるスワビア公がドイツ王国からの独立を宣言し、ハインリヒ4世に対して兵を挙げた。 #ref(スワビア公爵の蜂起.JPG,nolink) このときフリードリヒにも招集がかかったが、彼は無視し続けた挙句、ブランデンブルグ公に寝返ったのだ。 1071年12月、長男ジグフリートが死去。またもフリードリヒはわが子を失った。 これにより、伯爵位の相続権は次男であるマンフレトに移った。 1075年には浮気をしてアルブレヒトという私生児をこさえている。 彼は生涯、私生児をことあるごとに浮気相手に子供を産ませている。 勿論、正妻との子供も数多く作った。 その年の11月、法王庁の司祭が伯爵を訪れた。 妻ユーフロシネについてである。彼女は現在のアルバニア出身、正教徒なのである。 フリードリヒ「改宗する気はないのか?回収しなければ私はお前を殺さなければならない。」 ユーフロシネ「信仰を改める気はございません。8年間ご一緒できて私は幸せでした。さようなら。」 こうしてフリードリヒは二人目の妻を自らの手で葬ったのである。 1078年2月、彼は三人目の妻アデルを娶った。アデルは、かのイングランド王ウィリアムの娘であった。 彼が彼女を妻にできたのは幸運以外の何物でもなかった。 翌月、フリードヒリはケルンテン公の臣下のヘルマン・ツェーリンゲンからブレスガウ伯爵位を強奪し宣戦を布告した。 いい加減主君の暴走に付き合えなくなったイダは辞意を表明したがフリードリヒはそれを却下した。 いい加減主君の暴走に付き合えなくなった宰相イダは辞意を表明したがフリードリヒはそれを却下した。 彼の妄動はドイツ王とケルンテン公の争いに拡大し、結果としてケルンテンは独立を失った。 もっとも、フリードリヒ自身は目的のブレスガウを手に入れた後、ケルンテン公と講和したのであるが。 この戦いの最中に教皇が十字軍を提唱したのだが、フリードリヒには関係のないことであった。 教区長は彼の十字軍への無関心ぶりに呆れ、どこかへ去って行った。 1080年9月25日、ドイツ王の子であるオットー・フォン・フランケンが逝去した。 ドイツ王の跡継ぎはおらず、ドイツ中が自国の将来を憂い始めた。 #ref(オットー・フランケンの死.JPG,nolink) 1082年、フリードリヒのもとにヘルマンを名乗る親戚らしきものが訪れた。 出自は怪しかったが、彼の軍事的能力は驚嘆に値するものがあった。フリードリヒは彼を新しい元帥に任命した。 1083年、ブランデンブルグ公はドイツに吹き荒れる内乱に乗じて独立を宣言した。 #ref(ブランデンブルグの乱.JPG,nolink) フリードリヒにも召集がかかったが、スワビア公の時と同じく無視し続けた挙句、ドイツ王ハインリヒの封臣へとその身を翻した。 1084年5月12日、彼はハインリヒ4世からスワビア公爵に任じられる。 1087年、フリードリヒの次男で継承順位第1位のマンフレトはドイツ王女ベルタ・フォン・フランケンと結婚した。 #ref(マンフレトとベルダ.JPG,nolink) その年の年末には早くも長男ギゼルベルトを出産した。ドイツ王家では久方ぶりの直系の王位継承者の誕生である。 ドイツ王国中が歓喜に包まれたが、シュヴァーベン地方の熱狂ぶりは他の地方を圧倒していた。 ギゼルベルトはフリードリヒと国王ハインリヒの初めての孫であり、現国王ハインリヒの唯一の男子の子孫である。 そして、彼はホーエンツォレルン家の次々期当主が確定していた。 もはや、ホーエンツォレルン朝は確定した。スワビア公爵フリードリヒは狂喜した。 フリードリヒ「私の!私の孫は次期皇帝だ!我がホーエンツォレルン家は次期王家なのだ!」 彼は次男マンフレトに出産祝いとしてブレスガウを与えた。 ところで、スワビア公爵になってからのフリードリヒは暴君そのものであった。 封臣からことごとく領土を取り上げようとしたのだ。 その結果、封臣ウルム伯から宣戦を布告され、彼は当然のごとくウルムを武力で奪い取った。 もう一人の封臣であるフュルステンベルグ伯は武力蜂起はしなかったが、結局フリードリヒの方から宣戦を布告されて領土を失った。 自ら封臣になったヴュルテンベルグ伯からも伯号を取り上げた。 ドイツの他の諸侯は彼の統治方法が孫にまで受け継がれたら・・・と危惧した。 1099年、妻アデルが何者かによって殺害された。フリードリヒは彼女の死については涙ひとつ流すことはなかったという。 彼は喪が明けぬうちにボヘミア王の娘、ユスティナ・プレミスリッドを妻とした。 1100年、ハインリヒ4世が死去。フリードリヒの孫、ギゼルベルトが即位した。彼はまだ11歳だった。 彼は孫に臣従する事になったのだ。 1105年、フリードリヒ・フォン・ホーエンツォレルンは死去した。 #ref(スワビア公.JPG,nolink) 享年55歳。 生涯9男8女をもうけ、男子5人女子5人が彼の死まで生存していた。 スワビア公はブレスガウ伯でありドイツ王父である次男マンフレトが継承した。 [[Von Schwaben]] TIME:"2011-05-14 (土) 14:18:48"