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[[イルカの主]]
**ギルバー2世(1249-1263)
家臣団の選挙によって、先代ギルバー1世の次男であるシュバイツ公ギルバー2世が
民衆たちに祝福される中、ブルゴーニュ王ギルバー2世となった。
ギルバー2世は自らの持っていたシュバイツ公の地位を長男であるシュバイツ伯アレンに任命した。
さらにロレーヌ伯には次男のギュエリを据え、上ロアーヌ公の地位を約束した。
この年、ギルバー2世の四男ブリアンが誕生する。王は縁起がいいとして大々的にこの子の誕生を祝った。
即位して2年経った1251年には多くの子供が誕生した。
シュバイツ公アレンの長男アレクサンドル、ロレーヌ伯ギュエリの長男ジュリアン
ヴァライス伯ギョームの長男アンドレなどの男子が3人と女子が4人も誕生したのである。
しかし、1252年にシュバイツ公アレンが不慮の事故によって他界してしまうのである。
それに続くかのように、翌年にはマリョルカ公エルネストとラングドック公アルフォンソも亡くなったのである。
この3人の公爵の死は王国に混乱を招くと思われたが、一族の結束は固くすぐに後継者を任命した。
新しいシュバイツ公にはアレンの遺児であるアレクサンドルに、
ラングドック公にはアルフォンソの長男シモンに、
マリョルカ公にはメノルカ伯ハンベルトにそれぞれ任命した。
この際に、ハンベルトはマリョルカ公ハンベルト2世を名乗った。
この年ギルバー2世は上ロレーヌを王国に編入するため上ロレーヌ公国に宣戦布告をする。
ギルバー2世は神聖ローマ帝国領のサントニと上ロレーヌ公領のファルツの二手に進軍、
それぞれを、あっという間に陥落させた。
このとき、スワビア公国が神聖ローマ皇帝の要請を受け参戦した。
ギルバー2世はすぐさま転進し、スワビア公領であったノルガウとソルガウの二領を占領した。
このとき、神聖ローマ帝国から条件無しの和平を求められた。
ギルバー2世は交戦国を減らすために即座に応じた。
その後、スワビア公領のバーデンを占領。
これによって、スワビア公から上ロレーヌ地域のノルガウとソルガウを手に入れた。
その時、ファルツを上ロレーヌ公に奪還されるも、上ロレーヌ公は匹敵する相手ではなかった。
再びファルツを占領した後に彼らが篭っていたメッスを占領し、
彼らからファルツとメッスの2領土と上ロレーヌ公の地位を奪った。
これによって、彼らの属国であったマインツ伯がブルゴーニュ王国に投降しマインツも手に入れた。
そして、上ロレーヌ地域の全部の領土を次男であるギュエリに託し、彼を上ロレーヌ公とした。
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1254年から6年間の間、ギルバー2世は内政に勤めた。
その理由として、先の戦いで直轄領の兵士の数が最大時の半分以下となったためである。
もうひとつの理由として、神聖ローマ帝国とイングランド王国の同盟であった。
いくらブルゴーニュ王国でもこの2国の同盟の前には勝ち目は薄いと判断したのである。
そして1260年、下ロレーヌ公を攻める準備をしていた時、予想外の事態が二つ発生した。
一つは北アフリカとイベリア半島、ノルウェーを支配下に置くイスラム勢力のハマディッド王国が
ナバラ公に宣戦布告をしたのである。
これによってブルゴーニュ王国は彼らと剣を交える羽目になってしまった。
もう一つの誤算はうれしい誤算であった。
なんと下ロレーヌ公が神聖ローマ帝国から独立したのである。
これによって、彼らへの侵略時期を選ぶ必要がなくなったのである。
ギルバー2世は自ら出陣して、イベリアのハマディット王国領を侵略した。
その一方でナバラ公はオークニー諸島とスカンジナビア半島に進軍、
さらにマリョルカ公とサヴォイ公が新たに参戦して、北アフリカに進軍したのである。
これによって、ハマディット王国は半年も持たずに全領土がブルゴーニュ王国の物となった。
ギルバー2世は新たにカタロニア公を作り、家臣の一人に譲った。
ノルウェーのほうはナバラ公領となるも、ノルウェー王の地位に必要な数には届か無かった。
北アフリカほうはサヴォイ公とマリョルカ公とで分割された。
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1261年、母でありプロヴァンス公であったアマヴィリアが71歳で他界した。
プロヴァンス公の地位はギルバー2世の手元に来たが、
ギルバー2世は直ぐに自分の三男モーリスをプロヴァンス公とした。
ギルバー2世はこの頃から病の床に伏せることが多くなっていた。
1263年、ギルバー2世は50歳でこの世を去った。
その後継には家臣団の選挙で選ばれた次男の上ロレーヌ公ギュエリが新しいブルゴーニュ王となった。
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#ref(ドルフィン家系図1263.GIF)
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