[[ルーシ年代記]] *キエフ公イズヤスラフの治世 [#o79be759] キエフ大公だった父君ヤロスラフの死後閣下(イズヤスラフ様)がキエフ公爵に就いてから 早12年が経過していた。親族の公爵たちの間も良好ではあるが遠い将来にルーシ王国の 建設を目指すと誓っている閣下には足枷のようにも思われた。 直轄地のうち幾つかを一族や廷臣の者に任せる事にした。統治効率の改善を狙っての事ら しい。らしいというのは閣下が何も仰らないからで、当時一介の書記官でしかなかった私(28) には分かるはずもなかった。 当時キエフ・ルーシの周辺にはカソリック系のポーランド、ハンガリーといった王国や(ギ リシャ)正教系のビサンティン帝国やグルジア王国、またクマン族やビャルミア族、 カレリア族、リトアニア族などといった部族国家がひしめき合っていた。 ルリコヴィチ家も元をただせばスカンジナビア系の異教を信ずる民だったのが三代前の 公爵様が(ギリシャ)正教に改宗されて今にいたっているそうな それはさておき閣下はここ数年内政の指揮を執りつつ国の北に勢力を張るリトアニア族や リヴォニア族、さらに南のベネチェーク族の領土に狙いをつけた様である。とは言うものの 閣下は軍事面はお得意では無いようで、公子であるキエフ伯ヤロポルク殿や元帥スヴャトポ ルク殿が前面に立たれるのではないかとおもわれた。 1076年の或る日それは突然だった。 ぺネチェーグ族が宣戦布告!! キエフ公の政庁は一時的に恐慌状態に陥るが公爵閣下のもと態勢を立て直し連隊は出撃 準備にかかる。それは閣下の事実上の初戦でもあった。侵攻してくるぺネチェーグ族の連隊 を此方から迎撃押し戻すとそのまま主戦場だったペレゼッヒェンを攻め立てて占領のち傘下 に収める。しかし翌年コルスンを喪失するなど一進一退の攻防となる。 前後してぺネチェーグ族はハンガリー王や周辺諸邦に対しても宣戦布告をする暴挙にうって 出る。ハンガリー⇔ぺネチェーグ族⇔キエフ公という状況は実は閣下にとってよい状況で無い ようだ。もしハンガリーと対立しようものなら今の段階では消し飛ばされるのは十中九までは 我が国だとでも思われているのかどうか 1088年前後ベネチェーク族は弱体化しハンガリーが勢力を伸ばす ハンガリーの北のポーランド、南のビサンティン帝国も強大に成りつつあった ルーシ国内ではキエフ公ほか2公爵以外の公家がビサンティン帝国に臣従した それを伝え聞いた閣下は怒り狂ったという風聞が流れた 閣下はそれ以降、リトアニアの征服に力点を置かれた キエフの南方ではオリビアを獲得し一族の女子を封じた。その頃一族の男子は数人居たが 全て伯爵として封じたため旗本には居なかった。さらに幾人かの女子を伯爵としていた。閣下 のもとではプロヴィンスを一つ失うも五つを傘下に収める事に成功する。 1099年1月、75歳になった閣下はキエフ国内の一族・諸侯に招集をかけた。 その直後閣下は病に倒れられた。凶報を聞いて駆けつけた一族・諸侯・廷臣たちの集まる 中で閣下は三男のテレボウリ伯スヴャトポルク様を継承順に遵って後継者と定められた。 次男のキエフ伯ヤロポルク様をはじめとして多くの方々に看取られて、キエフ公イズヤスラフ 閣下はご逝去された。 イズヤスラフ・ルリコヴィチ 威信 990 信仰 604 イズヤスラフ・ルリコヴィチ1024-1099 威信 990 信仰 604 一族 妻ゲルトルーダ・ピアスト1025-1078 公子ムスティスラフ1043-1072 ノヴゴロド公家祖 公子ヤロポルク1047-1108 キエフ伯 妻ソフィア1036-1089 妻エイレネ1070-1094 妻アガテ・コムネノス1071-1125 母親不明 公子スヴヤトポルク1050-1110 テレボウリ伯 娘エカテリーナ1069-1137 リューベチ伯 公女イェプラシア1060-1109 イズヤスラフ甥 ボリス1053-1079 娘フェオドシア1071-1116 トゥーロフ伯 娘マリア1072-1131 娘クセニア1074-1145 子パヴェル1076-1146 イズヤスラフ甥 ロスティスラフ1038-1066 子ルリク1058-1125 在オリビア 子イルヤ1075-1162 司教 娘アンナ1076-1120 子スタニスラフ1079-1133 他 娘8人 子ヴォロダル1060-1101 ペレミシュル伯家祖 子ヴァシルコ1062-1101 トルキ伯家祖