[[ルーシ年代記]] *キエフ公/リトアニア王フェドールの治世 [#dea75451] グリゴリィ閣下の没後、閣下の称号すべてを引継がれたのは公弟フェドール様であった。 同時に先代の事業の全てを引きつぐ事になった閣下はリトアニア征服を第一目標に置いた。 (とは云うもののリトアニア全土を君主の直轄地としたい所ではありましょうが歴代君主が 司教領を置いたり、廷臣を伯爵に封じたりで相続権がこの数十年の間に訳が分からない状況 となる有様) 閣下は叔父スヴャトポルク・兄グリゴリィの苦心の末の現状を追認した。時期をみて判断 する事にしたように思われた。 リトアニア族がクマン王に臣従したのもこの頃 クリミアまで侵入したクマン族が宣戦布告をされた為南部の防衛にも気を配る 或る日、書記官に着任したばかりの頃に書記官長(52)と私(33)は閣下の呼出を受けた。 閣下は私に幾つか諮問をされたのち、リトアニアの征服後にリトアニア王国を建国するべきか 否かを問うた。ルリコヴィチ朝ビサンティン帝国の脅威もある周囲の情勢を勘案し即位なさる べきであると書記官長と私は声をそろえた。そうすると王家の本拠がリトアニアの何処かに遷 される事になる。直轄地が彼方此方に散らばるのも統治し辛いので避けたい・・・ 閣下「わしが王に即位すれば王都はリトアニアの地に暫定的に置く。わしの次の代の頃には キエフに王都を遷す事になろうがな」 書記官長・書記官「仰せのままに」 1126年・・・・この年リトアニアの地に新たな王が戴冠式を迎えられた リトアニア王国の誕生である 王都はリトアニアのどこか 政府はキエフに置かれる キエフの政府の切り盛りは公爵書記官府から国王書記官府へと衣替えをした書記官長(61)以下 我々書記官団に委ねられた。(キエフ周辺の三箇領のみ) ・1126年当時の周囲の情勢 &ref(1126.jpg,nolink); 赤/イングランド,水色/フランス,薄黄/カスティーリャ,薄茶/セビリア首長国 薄青/アラゴン,茶/ハンマード,紫/ゼナタ,群青/アルムラービド,海の色/ベニヒラル 濃ピンク/ズィール,エメラルドグリーン/イタリア,鶯色/ドイツ,白/教皇領 薄水色/ボヘミア,赤茶/デンマーク,青/スウェーデン,緑/ポーランド,灰/ハンガリー 薄灰/クロアチア,薄ピンク/コラ族,オレンジ/リトアニア=キエフ,青紫/ビサンティン ロシアの薄青/チェルニゴフ,黄/セルジューク,薄鶯/カラハン,ビリジアン/クマン 阿弗利加のビリジアン/ヌビア,アンマン/エジプト,ピンク/ダマスカス首長国 イングランド,ビサンティン,セルジュークはこの時点では手が付けられない状況 リトアニア王の直轄領は3個はら5個になる イタリア王フランケン家が目ざましい発展,現国王の有能さゆえか 今後はセルジュークトルコに喧嘩を売るか,コラ族を傘下にするか,ビサンティン帝国 を如何にかしたいが・・・ 1127年・・・ビサンティン帝国第65代皇帝ウラディミール=ルリコヴィチ陛下が崩御 皇太子イジアスラフ殿下が直ちに即位された ビサンティンは磐石の様である フェドール陛下は南に睨みをきかせつつ北方のコラ族を傘下にするべく動くと決断する コラ族連合(旧カレリア部族連合)はルーシの北の地域をほぼ全て傘下にしている。これと 如何戦うのか フェドール陛下の嫡孫であらせられるパヴェル殿下を王太孫に指名(1127年) パヴェル殿下は陛下の公子ウゼヴォロド様の子で公子が領主だった伯爵領を 継いでいる(公子様は1119年に死去) 1131年・・・ビサンティン帝国第66代皇帝イジアスラフ=ルリコヴィチ陛下が崩御 皇太子ユリィ殿下が即位された ビサンティンは安定している フェドール陛下と同世代の隣国の皇帝死去の報は陛下にも確実に老いが忍び寄ってきた フィンランドに数年前から駒を進める準備にかかっている。 1133年王都を政府が置かれているキエフに戻すことに。陛下がリトアニアにある直轄地を 全て手放す事にされたようであるかららしい。 キエフの書記官長(68)が引退されることになった 書記官の任にある私(49)が陛下の指示によって後任の書記官長に就いた 書記官長は王国においてこのような位置付けであったらしい 国王→大臣→書記→役人(政務,軍務) →廷臣→書記→役人(雑務,軍務) →書記官長→書記官→書記→役人(民政) 書記官長(68)が引退した数ヵ月後陛下が病没された 59歳であった フェドール・ルリコヴィチ 1074-1133 威信841 信仰599 一族 妻エリザヴェタ・ルリコヴィチ1073-1126 公子ヴセヴォロト1094-1119(伯爵) 孫パヴェル1113-1182(伯爵・王太孫) 妻ウゼスラヴァ1108-1167