*アンリ1世の時代 1229- 

父の死により彼はまず皇帝として即位した。直後に行われたコンクラーペでも当然のごとく彼が法王の地位に上ることととなる。史上初の未成年の法王であり、法王が世襲となった革命的な出来事であった。わずか9歳の法王の誕生である。

また彼は母親の影響からかフランス文化よりも母の母国イギリスの文化に慣れ親しんでおり自らはヘンリーと名乗っていた。しかし家臣たちはアンリと呼び続ける。

1235年アンリは成人した。この間宮廷の者たちによって政治が行われたが王自らが政治を行える年齢になったのである。まずは自らの妻を娶ることと成る。シャンパーニュ公の娘を彼は妻として迎えた。

そしてその直後十字軍の派遣を決定する。彼が戦場に赴けない間に低下した法王としての威信を取り戻すためである。全直轄地に対し動員が下された

今回の相手はエジプト地方一帯を抑えるファーティマ朝の王。しかし全土から集められた精兵30万を相手には戦えなかった。パレスチナの土地をすべて失いファーティマ朝の勢力は大きく殺がれることとなる。
またアンリはアレクサンドリアの獲得を祝って大々的にローマ及びパリで凱旋式を行う。ローマ伝統の凱旋式をローマで(ただ戦勝を報告するのはバチカン寺院であるが)、パリでは民衆の歓呼の声の中パレードが行われアラブの珍しい産品が住民に与えられたのである。こうしてエジプトの北半分を帝国は抑えることとなった。

直後フランス南東部でのポアティエ公爵に対する家臣の反乱が勃発した。最初静観を決めていたアンリは属国の度重なる離反についに参戦を決意する。しかし彼の参戦も甲斐なくフランス南東部の一部は帝国から独立した地域となった。

その頃1245年東方では業火のごとく現れた新たなキリスト世界の脅威が育ち始めていた。彼らはその残虐性ではかつてのアッチラと比肩され、烈火のごとく東方の正教地帯を荒らしていた。まだ西方にはその実態がとどけられておらずアンリは皇帝として、法王として平和なときを過ごしていたのである。

アンリは法王と皇帝の職務をこなすことにより徐々に自分の体力を失っていくことを自覚していた。しかしながらどちらかを他人に譲り渡すことはカペー家の権威を失墜させるとの強迫観念からその地位にしがみつくことと成る。そして1248年彼は死去する。その後を継いだのは遠縁のスパニッシュマルシェ公爵のアルフォンスであった。彼は聖職者の道を歩んでいなかったが法王にも選ばれたのである。
アンリは法王と皇帝の職務をこなすことにより徐々に自分の体力を失っていくことを自覚していた。しかしながらどちらかを他人に譲り渡すことはカペー家の権威を失墜させるとの強迫観念からその地位にしがみつくことと成る。そして1248年彼は死去する。その後を継いだのは遠縁のスパニッシュマルシェ公爵のアルフォンスであった。彼は聖職者の道を歩んでいなかったが法王にも選ばれたのである。こうして法王の地位は完全に皇帝に従属するものとなり名目だけのものとなった。


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