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Randolfの時代(1123~1147)
ローマ皇帝にして
イングランド・ウェールズ・ブルターニュ・スコットランド・フランス・アクィタニア・シチリア・アイルランド・ロタリンギア・レオン・
ナヴァラ・ボヘミア・ノルウェー・西方諸島・フィンランド・リトアニア・グルジア・ポルトガル・ベニヒラル王にしてヴェネツィア独裁官、
チュートン/テンプル/ホスピタル騎士団総長(23冠)
Randolfを讃う。
父が即位したころベニヒラル国がキリスト化していたので、
1124年9月にさっそくこれを奪った。
またグルジア王国が北のクマンに圧迫されだいぶ弱体化していたので
1133年1月にこれを奪う。
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1137年2月、ついにイェルサレムを目標とした第三次十字軍が発令される。
以前祖父Richardが止めていたものだが、このころになるとセルジュク国に内乱が発生、イェルサレム首長がイスラム化したカスティリャにつくなど
状況が変わってきていたのだった。
この十字軍に伴い、
1138年5月にテンプル騎士団総長、1141年7月にホスピタル騎士団総長に就任した(奪った)。
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満を持してカスティリャ国へ宣戦、イェルサレムへ兵を差し向け、
12月についに聖都を解放することに成功。
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この戦争を通じて大幅にカスティリャ国の封臣を奪い、1142年12月にポルトガル王を創設する。
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1145年11月、セルジュークに奪われていたコンスタンティノープルを標的とした第四次十字軍が発令。
かの帝国首都を抑えればローマとコンスタンティノープル、西方と東方の「首都」を数百年ぶりに
同一勢力が保持できる!
父は勇んで出陣したが、
1147年8月、陣中にて没してしまった。世間では殉教者と称揚された。
その後私は軍を引き継いでコンスタンティノープルの攻略に成功したが、父の軍勢あってのことである。
重要度において先の2度の十字軍を上回る2度の十字軍、を成功させつつも志半ばに殉教した父は聖帝と呼ばれるようになった。
1147年8月の世界情勢
セルジュークトルコが内乱で大いに弱体化する。
凡才が即位したカスティリャ国を十字軍で一気に弱体化させることに成功。
クマンが完全にロシアを抑えなかなか手を出せない。
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***[[Ⅱ,「宣教帝」Richardの時代(1097~1123)]] [#v42fc6e6]
***[[Ⅳ,「勝利帝」Geoffroyの時代(1147~1170)]] [#o04d8382]
TIME:"2011-08-09 (火) 10:24:30"