マルク公の即位後数年間は母アリードが摂政となった。
コナン公の補佐を長く勤めていた経緯もあり、さして混乱は見られていない。
彼女はコーンウォール女公*1でもあったため、しばしば利益誘導の感のある政策を行っている。
その際たるものがイングランドへの臣従である。
先の大乱でフランス国内諸侯との関係が悪化したことで外交上の選択肢が大きく狭まっていたとはいえ、
当時ブルターニュには差し迫った脅威は無かったため、この臣従は大陸側貴族には大いに不評であった。
マルク公自身、「父上とイングランドとは対等な同盟者であったのに、何故私は臣下に甘んじねばならないのか」と不満をこぼしている。*2
1089年、マルク公が成年を迎え、結婚相手を決めることとなった。
アリードを始めとする親英派はエディス王女を推したが、
マルク公は「私はサクソン語なぞ話せないし、覚える気もありません。王女とて我等の言葉や、フランクの言葉が話せるわけではないでしょう。
私はラテン語で会話しなければならない妻など迎えたくありません。」と拒絶。
母の思惑を退けた彼が望んだ結婚相手は隣領ノルマンディー公女、エリーゼ。
遠い祖先の北方の血が濃く出たのか、銀髪が評判の美女であった。
互いに激しく敵視しあったコナン公、ギョーム公の時代からは十数年もの月日が流れており、
直接のわだかまりを持つ人間は既に第一線を退いていたこともあって
ノルマンディー公家との関係の修復は速やかに進み、結婚の申し出はすんなりと受け入れられる。
マルク公とエリーゼ公女との婚姻は、両家が再び良好な関係を取り戻したことの象徴となったのである。
旧来の外交方針-反ノルマンディー政策とそれに伴う対英追従-を大幅に変更し、
親政の第一歩を成功させたことに自信を深めたマルク公は次々と新たな施策を打ち出していく。
・ローマ法の学者を高給で召抱え、貴族、聖職者の権力を制限した集権的国法を制定
・それを財源として農村の余剰人口に訓練を施し、軍の規模を増強
・彼らを用いたブルターニュ全土での道路等の建設
・移動がしやすくなったことによるノルマンディーとの交流の活発化
これらの改革により、ブルターニュの経済は大いに効率化されたという。
しかしながら、全てが順調というわけにはいかなかった。
独裁的な彼のやり方に反発するものも多く、一部の臣下はブルターニュを離れていった。
その中には姉妹や従兄弟、そして母までもが含まれる。
批判者達の目にはマルク公は単なる権勢欲の強い浪費家としか映らなかったようである。
……まぁ、実際彼は金遣いが荒かったのだが。
救いがない浪費家にして管理14
思いつきで大きな出費をすることがあまりに度々であったため、廷臣や他国の間諜も目的について一々詮索することは無かったらしい。
1092年、大乱に勝利し自領を一大勢力へと育て上げた名君、アキテーヌ公ギーが死去。
後を継いだ長子ポンスは妄想に耽溺するばかりで、到底君主の器ではなかった。
分裂症持ちで狂信的。先妻の息子であり、年の離れた姉(彼が幼いうちに嫁いだ)を除いた弟妹は皆後妻の子であった。 孤独な幼年時代が彼の精神を蝕むきっかけだったのだろうか。
彼はこの頃流行し始めた騎士道物語「ローランの歌」を聞くや、
「これこそ私が求めていたものだ!私はローランのごとき騎士となり、シャルルマーニュの後継者たるアントワーヌ陛下にお仕えねせばならぬ!」
と叫び、アキテーヌ公国をフランスに再び臣従させてしまったのである。
また、アキテーヌはイベリア半島のムスリム諸国との交易で潤っていたのだが、
彼は「キリスト教徒たるものがサラセンの悪魔どもと取引するなどとあってはならない!」と禁令を出し、
ムスリムから伝わってきたギリシャやアラビアの文献、医療技術等は異教的であるとして破棄された。
ヒメネス家の諸王国は骨肉の争いの末ムスリムに滅ぼされている。 (赤のレイヤがかかってる部分がキリスト教国) ギー公の下強力に統制され、天嶮ピレネーを隔てているアキテーヌとは平和共存の道を選んだようだ。
先代の治世全てを否定する暴政に不満の声は数多く上がったが、意外にも目立った反ポンス公の運動は起こっていない。
……少なくとも表向きには。
ただし、彼の在位中にアキテーヌ公家の一族-特に後妻の子供達-や廷臣はその人数を大幅を減らすこととなった。
即位後3年、1095年にポンス公は亡くなった。彼に殺された者の近親による報復であると囁かれている。
1103年の末、東ローマ皇帝アレクシオスは小アジアに大挙押し寄せてきたセルジューク・トルコの一派とマンジケルトで決戦し、
重騎兵を巧みに用いてこれを打ち破った。しかしながら地元貴族の裏切りによって皇帝自身の命は失われた。
その最後の言葉は「主よ、願わくば我等キリスト者の不和を憐れみ給え。」であったと伝えられる。
*3
キリスト教と東ローマ帝国の衰退を食い止めようと懸命なその姿は鬼気迫っており、半狂乱とも映った。
1105年1月、教皇パスカリス2世はクレルモンで開かれた教会会議にて
アレクシオス帝の悲劇的な最後と、聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラがムスリムの手に落ち、聖ヤコブの遺骸が無残にも踏みにじられたこととを語り、
「全ての騎士、全ての兵、全ての民は武器を取り、十字架の旗の下に集え!神がそれを望み給うのだ!」と演説。
居合わせた人々は一人残らず「神がそれを望み給う!神がそれを望み給う!」と絶叫した。
この熱狂は瞬く間に欧州全土に広がった。
全てのキリスト教徒が互いに争うことをやめ、信仰のために戦うことを決意したのである。
イングランド王及びピサ共和国を中心としたイタリア諸国はイベリア半島へ。
ドイツ王は北方諸王を統率してバルト海へと。
そしてフランス王はその他全ての君侯を率いてパレスチナへと向かった。
十字軍は輝かしい成功を収めた。
バルト海沿岸の多神教徒は駆逐され、イベリア半島ではムスリムはタホ川まで押し戻された。
そして、500年の時を経て聖都エルサレムがキリスト教徒の手に取り戻されたのである!
十字軍の英雄達
*4
改宗者ゴットシャルクの息子、メクレンブルク公ヘンリク 常に軍勢の先頭に立って果敢に戦った。 余談ながら彼の嫡孫はマルク公の甥に当たる。
エドマンド王の息子、イングランド王エルバルド 父譲りの軍才を大いに発揮した。
エルサレムの解放者、フランス王アントワーヌ 十字軍総大将として出身も言語も様々な軍をよく纏めた。
まばゆい光輝ほど消える瞬間はより冥くなるのだろうか、
熱狂の終焉は実に無残なものとなった。
エルサレムの陥落時にムスリムのみならず正教徒までもが多数虐殺されたことにより
長年の正教とカトリックの対立が再燃し、
パレスチナの十字軍獲得地には反乱-それも組織的な-が頻発するようになる。
北方では領土の配分を巡って再びキリスト教徒同士が相争うようになった。
メクレンブルク、ザクセンを中心として北部諸侯はドイツ王に反旗を翻した。
挙句の果てには、十字軍を今もって継続中のイングランド・ブルターニュの留守領土に対し、フランス王が侵攻して来たのである!
マルク公は即座にイスラーム勢力と講和して主力を引き返させたが、予備部隊が第一陣を撃退したとの報が届いて後は
兼ねてよりの有力仏諸侯との友誼もあり、その内適当な条件で講和を結べるだろうと楽観していた。
……そう、彼は父王を敗死させた地、ブルターニュへのアントワーヌ王の敵意の程を読み誤っていたのである。
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アントワーヌ王は父王と異なり、大変狡猾であった。
一例として、パレスチナには諸国の混成軍であった十字軍の構成を反映して小邦が林立していたのだが、
彼は信仰心厚い十字軍諸侯を扇動して、一帯を名目上教皇の封土とすることに成功する。
これにより教会勢力の絶大な支持を獲得し、「聖墳墓教会の守護者」に任じられてパレスチナ全域の実権を掌握した。
巡礼路を抑えたことで彼の財政は大きく好転したという。
他にも、
・十字軍へ兵を拠出しなかった諸侯を信仰の敵として糾弾、領地を剥奪する
・内乱中のドイツ王から領土を奪回
など十字軍の熱狂、英雄としての名声、教会からの支持を最大限に活用して巧みに勢力を拡大していった。
ブルターニュに帰還したマルク公を待ち受けていたのは破門宣告、そしてアキテーヌ公、トゥールーズ公を含む南仏諸侯はおろか、
岳父たるノルマンディー公までもがフランス王の召集に従い、軍の総勢は7万にもなったとの報せであった。
理不尽な破門に対し廷臣達は異口同音に「馬鹿な!十字軍に従軍すれば完全な贖罪が約束されるのではなかったのか!」と憤ったが、
第一の側近、コルヌアイユ司教ヘルベの激昂は余人とは比べ物にならなかった。
マルク公の教育係であり、学識に優れていた。公によりコルヌアイユの司教に任命されている。
「公よ、貴方への、引いては我等全員に対してのこれほどの侮辱に対して反駁せぬわけには参りません!」と
彼は単身出向いて教皇使節に論戦を挑んだのである。
ヘルベが破門理由の不当と十字軍による贖罪とを主張すれば、教皇使節はヘルベ自身の立場-俗権による叙任-を聖職売買であると攻撃し、
論戦は果てを知らずに続いた。
一方、戦況は刻一刻と不利になっていた。
イングランド諸侯はそもそも縁が薄い上に破門までされているマルク公を助ける為の従軍を拒否し、
イングランドからの援軍は甚だ心細い規模でしかなかった。
またフランス諸侯はアントワーヌ王に不満を持ちつつも火中の栗を拾うのを厭い、黙々と従軍するのみであった。
王の妻子を抑えることを狙ってパリを奇襲するなどマルク公は果敢に戦ったたものの、数に抗うことは出来ず、降伏を余儀なくされた。
和平は兵力の差を反映して厳しいものとなった。*5
・ブルターニュ公位の引渡し
・フランス王への臣従
・聖職者裁判権の喪失
・破門解除の嘆願が認められる
・「父の罪」を謝する、としてポンス公と同様な屈辱的儀式を強要
(騎士道気違いであったポンス公は自ら望んで行ったようだが)
なお、マルク公の破門の是非についての論戦はややヘルベ有利に進んでいたが、
この講和を受けて彼自身の上位聖職者への不服従に対して裁判が行われ、司教位は剥奪、追放刑に処せられた。
……その後の彼の行方はようとして知れない。
確実なのは故郷ブルターニュへ帰ることは叶わなかったことである。
結局マルク公の破門が解除されることはなく、諸侯は自身も無理やりな理由で破門されるのではと怯え、王への反抗を躊躇するようになった。
ここにアントワーヌ王の勢威は頂点を迎え、西フランク王国時代からの悲願、王権の諸侯に対する優越が成し遂げられたのである。