長寿公オルドゥルフの治世

 ここは羊皮紙がひどく破損しており、一部判読不能になっている。

 ……、マイセン公はボヘミア王の娘を娶った。あからさまな政略結婚である。
 さらに、妹ウテを北の大国ブランデンブルク公の嫡子に嫁がせた。
 1090年、世継ぎとなる長男ゲルハルトが誕生。翌年、次男アガテ誕生。
 ……、マイセン公は突如ローマ教皇より破門の宣告を受けた。すべては教皇を裏で操る北西の大国ザクセン公の仕組んだ陰謀である。
 このような陰謀を黙って甘受するような公爵ではない。しかし、……であり、マイセン公は公国の防衛準備を命じるに止めた。
 公爵が破門されたことが諸国に知れ渡ると、諸侯は争ってマイセン公の地位を我が物にしようとした。

 公国内でもマイセン公が破門された事実は波紋を広げた。特に聖職者達は天罰を恐れて、……。
 2年後、ヴァイマールの聖職者が集団で武装蜂起した。一時は砦が陥落の危機に瀕するが、マイセンからの援軍を得て反乱は即座に鎮圧された。これ以降、直接武力に訴える諸侯は現れなかった。
 1093年、長女レギンズイット誕生。さらに翌年、三男ボケック誕生。愛の天使は、世俗の争いとは無関係に微笑んでいるかのようであった。


 1094年、遥か南西の大国シュワビア公国の地位を要求するのに十分な物証が発見された。しかし、今はその時ではないと判断したマイセン公は、その証拠を封印させた。
 翌年、長女レギンズイットが流行り病にかかり天に召された。享年2歳。さらに、姉ビンヒルデが自分は預言者であると言い出し、宮廷の者達を驚かせた。
 凶報はなおも続いた。妹ウルスラが階段から転落して、そのまま帰らぬ人となったのである。身重の体で公務をこなしている最中の出来事であった。聖職者たちは、領主が破門されたことによる天罰だと噂した。
 翌年、四男アルベラーデが五体満足で誕生し、領民に祝福された。

 1099年、ローマ教皇はイスラムの圧迫に苦しむビザンティン帝国を救い、聖地エルサレムを奪還する「聖戦」、すなわち十字軍の開始を高らかに宣言した。聖戦に参加するものはすべての罪を許されるとされたが、マイセン公は出兵の動きを見せず、領内の聖職者を失望させた。
 同年、次女ブリュンヒルデ誕生。さらに4年後、三女ギゼラが誕生。一方この頃、姉ビンヒルデの病状は末期的になっていた。彼女はあろうことかバベルの塔を再建すると宣言し、商人から膨大な額の借金をしたのである。


 1104年、公国の聖職者達は、マイセン公の教会に対する献身的な働きを高く評価し、一転して公爵を支持することを宣言した。これはローマ教皇に対する明らかな挑戦であった。
 翌年、五男ベルトルト誕生。その翌年、世継ぎのゲルハルトが成人した。彼は諸国でもまれに見る治世の才を身につけていた。公国の財政はそれまで公爵の妻が司っていたが、これを機に息子と交代することになった。この人事により、公国の財政は見違えるように好転することになる。
 翌年成人した次男アガテは本人の強い希望により、教区司教になった。

 その翌年、六男ベドリッヒ誕生。同年、ブランデンブルク公の家臣であるアンハルト伯がマイセン公の地位を要求した。この時、かつてブランデンブルク公の嫡子に嫁がせた妹ウテは、アンハルト伯爵夫人となっていた。
 すなわち、義理の弟が刃向かって来たのである。この事実はマイセン公の復讐心をかきたてるに十分であったが、この時点では双方とも兵を動かすには至らなかった。
 翌年、七男エーベルハルト誕生。同年、宮廷の一室に幽閉され、外に出る機会もなくなっていた姉ビンヒルデが自殺。享年42歳。


 1112年、四男アルベラーデが病死。享年6歳。
 この頃、フランス王国とその同盟国が神聖ローマ帝国に大掛かりな戦争を仕掛けていたが、公爵は皇帝よりの勅命があるまで兵を出すつもりはなかった。
 こうした中、マイセン公が継承権を封印したシュワビア公国をはじめとする幾つかの大国が帝国から独立。直轄領が一時占領されるに及んで皇帝の権威は失墜し、戦争は泥沼状態に陥っていた。

 同年、南東に境を接し、公爵夫人の実家でもあるボヘミア王国がマイセン公の爵位を要求してきた。今度こそついに戦争かと、公国内に緊張が走った。
 ボヘミア王が家臣に兵の動員を命じたという知らせが届き、続いて国境沿いで兵が行軍しているのが確認された。
 しかし、兵が向かったのはマイセンではなかった。ボヘミアは王国内で内戦状態に陥っていたのである。一安心したマイセン公は、臨戦態勢を解除した。


 1113年、四女ユッテ誕生。同年、実家との間で戦争が起きるかもしれないと心を痛めていた公爵夫人は、あろうことか気がふれてしまった。知らせを受けたマイセン公は、姉ビンヒルデの悲劇が脳裏をよぎった。
 翌年、世継ぎであるゲルハルトと、ブランデンブルク公の息女との間で婚儀が執り行われた。あからさまな政略結婚であったが、これで公国の未来は安泰だと領民は二人を祝福した。
 さらに同年、かつてマイセン公を教会から破門する企てを仕掛けた、北西のザクソン公国が同盟締結を申し出た。当初公爵は、今にも使者を切り捨てんとするほど怒りに満ちていた。しかし、先代のザクソン公は前年世を去り、今は19歳の嫡子が公国を率いていると聞くと、突然高笑いをはじめ、承諾の旨を伝えて使者を送り返した。

 2年後、軍隊で修行中の七男エーベルハルトが、マンスフィールト家の騎士を恩師だと言って宮廷に連れて来た。騎士を一目見て気に入った公爵は、彼を将軍に任じた。これまで公国の最大の弱点であった軍事力が、これで整ったことになる。
 マンスフィールト家は近年マイセン公国において重きを増している貴族である。元はマイセンの豪商であったが、当時まだ世継ぎの身であったマイセン公オルドゥルフに見出されたジークフリート・フォン・マンスフィールトが公国の外交を任されたのが契機となり、のちに公爵の妹ウルスラを妻とすることになる。
 その子供達は様々な面にわたって公国を支え、宮廷内で次第に力を伸ばしていった。


 1118年、次女ブリュンヒルデはユトレヒト半島の付け根にあるハンブルク司教領の世継ぎのもとへ嫁いだ。
 翌年正月、マイセン公は満を持して公国全土に総動員令を発した。しかし、属領のラウジッツ伯は召集に応じることを拒否した。この知らせを聞いた公爵は内心ほくそ笑んだ。動員令の目的は、他でもないラウジッツ伯領の併合にあったからである。
 マイセン公は、父である純潔公がかつて伯爵に背かれたことを忘れていなかったのである。自分が公爵の位を継ぐと同時に、密かにラウジッツ伯への復讐を誓ったのだ。恐るべき執念深さであった。

 召集に応じて集まった兵は570名。対して、ラウジッツ伯が動員した兵は400名。公国の兵は次々と国境のエルベ川を越えた。
 ラウジッツ伯は城を出て野戦に応じた。当初こそ両者の力は拮抗していたが、やがて伯爵の兵は総崩れになり、籠城戦となった。
 マイセン公が本国を留守にしている間、マイセンでは神聖ローマ帝国軍による略奪が行われていた。
 長きにわたるフランスとの戦いで、帝国はもはや崩壊の瀬戸際にあり、同盟国クロアチアの助力でかろうじて戦争を継続している有様であった。このような状況の中、ザクソン公国もまた、帝国からの独立を宣言していた。
 籠城戦は翌年の春まで続けられた。最終的にラウジッツ伯は全面降伏し、ラウジッツはマイセン公国に組み入れられた。


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