コンスタンティノス11世ドゥーカス 1079-

世界情勢

英独仏に戦争を仕掛けたハンガリーはボヘミア王国に宣戦布告され、さらには反乱祭りになっている。
イングランドはスコットランド王国と戦争をしたが、なにも得る物のないまま講和。
イベリア半島ではキリスト教徒の伯国が、2つか3つムスリムに占領される。
ロシア東部では2大異教国の、ボルガ帝国とウグリック族(王国に相当)が同盟し、弱小国と戦争中。
最大の兵力・技術力を持つといわれるファティーマ朝(王国に相当)は、27546人の兵力を保有。
ちなみに東ローマ帝国の兵数は47324人(!)


※この章でいう「ドゥーカス」とは「コンスタンティノス"11世"ドゥーカス」のことであり、「コンスタンティノス"10世"ドゥーカス」は、「父親or前皇帝」となります。

得る物あれば、失う物もまたあり

1079年4月26日、ドゥーカスの即位式が盛大に行われた。ドゥーカスは演説で「ローマ帝国の復興を目指す」と宣言し、攻めてくるのではないかと周辺国は警戒した。
ちなみに皇帝の死の翌日ではなく、4月26日に即位式をしたのは五賢帝の一人、マルクス・アウレリウス・アントニヌス(121年4月26日 - 180年3月17日)の誕生日であるからだった。

父の遺言通り、コンスタンティノス11世ドゥーカスは帝国の領土を広げるべきだと考えていた。
父の威信は世界一あったが、ドゥーカスはわずか(154)しかなく、信仰心もわずか(162)だった。
いくら名戦術家であるドゥーカスであっても兵士がいなければなにもできない。
まずは資金を貯め、内政に励み、兵士を鍛えてムスリムとの戦いに確実に勝てるように数年間は不戦を心に誓った。

1079年6月、黒海北部オレシェイに廷臣の属国を作り、信仰心を増加させた。

1079年9月24日、次男パントレオンが誕生。

1079年12月25日、長男アントロニコスが病死。最悪のクリスマス・プレゼントとなってしまった。
ゾランナ皇帝夫人は悲しみのあまり1週間部屋から出てこなかった。

1080年10月29日、長女ヘレナ誕生。ドゥーカスは生まれた子が女子だったため正直、あまり喜べなかった。

1081年2月13日、長女ヘレナが病死。相次ぐ子供の死にゾランナ皇妃はストレスを抱えそうだった。

1081年8月20日、三男イレウセリオス誕生。後継ぎ候補の生まれに帝国中が喜んだ。

1082年8月16日、四男マニュイル誕生。

1083年1月、財政基盤を整えたドゥーカスは、父の代に帝国から独立したトラプソン公国についに罰を与えるときを迎えた。しかしそれは第2軍がやることであり、本軍が向かう先はムスリムの土地だった。

1083年3月、トラプソン公国に宣戦布告。トラプソン沖には大量の兵士が乗った船が待ちかまえており、即座に攻撃するという、いわば姑息な手だった。

1083月4月、ムスリム圏のアル・ジャジーラ帝国に宣戦布告。

1083年5月、トラプソン城が落城。トラプソンは皇帝直轄領となり、トラプソン公国が治めていた属国は帝国の元へ編入された。

1083年7月16日、五男コンスタンティノスが誕生。が、今は戦時中であり、喜んでいる場合ではない。妻や子、国民を忘れ、戦いに没頭した。
4日後の20日、四男マニュイルが病死。ドゥーカスは、生まれては死に、の続きに落胆した。

1083年9月、アル・ジャジーラ帝国を併合。続いて、ムスリムのパールンラ王国に宣戦布告

1084年3月、パールンラ王国を併合。カスピ海沿岸のデーベント帝国へ向かう。

1084年6月、ムスリムのデーベント帝国に宣戦布告

1084年7月、総動員令に従わなかった、アルメニア公国に宣戦布告。

1084年10月、アニ城(アルメニア)陥落。アルメニア公国の属国は、皇帝の属国になった。

1084年11月、デーベント帝国に首都アルバニアを割譲させることで停戦に合意。

1084年12月、ゾランナ皇妃が風邪を引く。相次ぐ子供の死にストレスが溜まっていたからだと医者は言った。

1085年2月、諜報顧問アンドロニコス(皇帝の兄)の報告によると、小アジアのアンチオチュ公国の忠誠心が大変下がっており、反乱を起こす寸前だと言うことなので資金援助と領地を1州与えた。

1085年8月、三男イレウセリオスが病気を患った。ドゥーカスは「また我が子が死んでしまうのか」と、大変心配し、教会に毎日礼拝に行き、統治もままならなかった。

1086年9月、六男アセムポロウスが誕生。皇帝は大変喜び、この日を休日にすると言い出したが、顧問の説得で取りやめた。

1087年4月、ビンヒルデ財政顧問が肺炎になったのをうけて解任。後任にはパトゥリキロス(48)がついた。パトゥリキロスは前皇帝の財政顧問をしたことがあり、2度目の皇帝顧問だった。

1087年7月、ビンヒルデが肺炎で死亡。41歳であった。ビンヒルデはドゥーカスの兄アンドロニコスの妻であった。
早速、ドゥーカスは兄の婚約相手を捜した。

1087年8月、廷臣のアレクサンドロスにアニを与え、国民の信仰値を高めた。

1087年12月、アンドロニコスは、ドイツ王国の廷臣ジェシェラと結婚した。
ジェシェラは優秀であったが、ストレスを抱えていた。

1088年1月24日、六男アセムポロウスが病死。皇帝は愕然とし、皇妃は気絶してしまった。

1089年1月、三男イレウセリオスの病気の正体は回虫だと、医者は結論づけた。
ドゥーカスはあいつぐ子供の不幸に何か嫌な予感がした。

1089年2月、アンドロニコスの妻ジェシェラが自殺。ドゥーカスは廷臣のシェオドラと結婚させた。
なんとなく、不幸が自分から兄へ移ったような感じがして、内心ほっとしていた。

東ローマ帝国の歴史

1089年4月26日、ドゥーカスは、皇帝コンスタンティノス11世ドゥーカス即位10周年の記念に帝国についてまとめることにした。

&attachref(1089年4月6日.jpg);
↑紫色が東ローマ帝国。黄色が世界の東端に位置する大国ムスリム・セルジューク朝。青色がエルサレムを所有するムスリム・ファティーマ朝。左上灰色のハンガリー王国は他王国との戦争は終結したものの、ここ十数年内乱が激しい。


&attachref(家系図(いるか氏に感謝!!).jpg);


↑家系図。いるか氏のをパクらせてもらいました。この場を借りてお礼申し上げます。

目指すは聖地

1089年12月、ゾランナが病状から回復。皇帝は喜んだ。病気では世継ぎが作りにくいからだ。

1091年1月、閣僚改革が行われた。諜報顧問はムスリムのトゥルン(諜報11)、軍事顧問はソムス(軍事11)となった。
ムスリムが諜報顧問となるのに元老院はいささか不満があったが、トゥルンは公然の場で皇帝に永遠の忠誠を誓っており、さらにこれからは南進の時代。同じムスリムなら各王の気持ちがわかるのではないかと、皇帝は思った。
裏を返せはトゥルンにとってムスリム国は同胞であるが...。
さらに、最近商人の金融業が活発化しており、国民の信仰値が低下しているため、教会への寄進料を法律の許す限り増やした。

1091年10月、ナポリ城の改築が完了し、首都コンスタンティノスと同等の鉄壁となった。
これで、イタリアの橋頭堡としての役目をより一層高めた。

1091年12月、七男ニケトゥスが誕生。その日がなんと25日であったため驚きだ。

1092年6月、兵の輸送・維持費を貯めた皇帝は、いよいよファティーマ朝に侵攻を開始した。
まずは直轄領から兵を召集し、アラブ地方の軍隊をシリア方面軍としてファティーマ朝との国境沿いに集める。
作戦は、シリア方面軍が東ローマ帝国と地続きに攻め込んで行き、国王率いるエジプト方面軍はファティーマ朝の本拠地エジプトへすみやかに侵攻し、賠償金を払わせて撤収。属国の反乱を防ぐにはスピードが命だ。

1092年9月、シリア地方・ヒムスの戦いでファティーマ朝に敗北。

1093年2月、ヒムスが落城。ファティーマ朝領に。

1093年3月、続いてパルミャラが落城。シリア戦線は崩壊寸前だった。
シリア戦線とは対照的にエジプトは圧倒的に東ローマ帝国の優勢が続いている。アレクサンドリア・カイロなど主要都市を次々と占領。東ローマ帝国も、ファティーマ朝も、自国領を捨てて相手領を占領し五分五分に持ち込む気であった。

1093年4月、シリア方面軍に援軍が到着し、ヒムスでファティーマ朝と再び戦う。激しい戦いの末我軍の勝利。

1093年5月、八男リカペヌス誕生。

1093年7月、小アジアの属国2ヶ伯国がファティーマ朝の同盟国セルジューク朝に併合される。

1093年8月、シリア方面軍がヒムスを奪還。

1093年9月、リカペヌスが死亡。あっというまの死だった。

1093年11月、パルミャラ奪還。

1093年12月、エジプト一帯を帝国領とすることでファティーマ朝と講和。
これでファティーマ朝直轄領は1州となった。

<続く>

東ローマ帝国の野望


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