【ディートリッヒ1世(在位1164~1184) ドイツ・イタリア・ブルグント・ボヘミア・シチリア・フランス・レオン・カステーニャ・アラゴン・ポルトガル・イングランド・ウェールズ・スコットランド・アイルランド・ポーランド・リトアニア・ハンガリー・モーリタニア・デンマーク・スウェーデン・ノルウェー・ブルガリア・セルビア・クロアチア・ルーシ・セルジューク・アルメニア・フィンランド・ヌビア・グルジア・アフリカ・シリア・メソポタミア・ペルシア・エルサレム・アラビアそしてエジプト王を兼ねるビザンツ皇帝】
直轄領:Franken、Leiningen、Ulm、Wuttemberg、Venezia、Genoa、Mainz、Byzantion、Baghdad、Alexandria
父帝の戦死を受け、ディートリッヒは30歳で即位。
ディートリッヒ新皇帝は、故アドルフ(イングランド王)の弟であり
ウルリッヒ前皇帝の子の中で、唯一成人まで生き延びた子であった。
・BOPACK歴史イベント
・1151~1171年、カトリック(ドイツ地方)で発生。
・領民の忠誠心upやらマラリア終焉やら技術入手やらの選択肢。お好みで。
・BOPACK歴史イベント
・1150~1199年、カトリック(スペイン地方)で発生
・大学やら疫病終焉やら科学技術やらの選択肢。お好みで。
・今回はスペイン地域の司教が教皇に選出されて、直轄地になっていた時に運良く発生。
十字軍跡地で育ったせいなんでしょうか、カトリック・セルジュークが誕生…
威信8000程度で奪えたので、破門もせずに軍事制圧。
国王直轄領が一州だけしかない王国はカモにしか見えない…
瞬く間にセルジューク王位を簒奪し、アルメニア王を名乗る。
ついでにフィンランドも滅ぼし、フィンランド王を名乗る。
・BOPACK歴史イベント
・1164~1167年の間にイングランド王位を保持しており、regal_supremacy(王権至上制)でないと発生
・威信と陰謀能力up、信仰心と外交能力downのほか、教会系の廷臣が駆けつけてくる。
そこはヌビアでもグルジアでもないじゃんとクレームをつけ制圧。
カルタゴは滅ぼさねばならぬ。アフリカ王を名乗る。
レオポルド帝時代に功を奏した戦略を模倣し、エジプト王家直轄地を攻撃するのではなく
エジプト王国臣下を軍事的に恫喝し、帝国の庇護化に置くこととした。
この戦略は一定の成果を挙げるものの、敵主力との数度に渡る戦闘に悉く敗退。
いまだにイスラムと帝国との技術格差が存在することを印象付ける戦いであった。
また、帝国諸侯も先帝の時代から独立志向が見られ
帝国の意に反してアレキサンドリアを勝手に直轄地化する者や
戦闘を放棄し、自領に引き上げる者が続出した。
このため双方決め手に欠くまま、三年以上に渡り戦争が続けられたが、
ディートリッヒ帝はついに、エジプトが王都バグダットを放棄することを条件に
今度いっさいの領土的要求をしないこと(クレーム放棄)、金貨500枚を支払うことを承諾した。
この頃、ディートリッヒはシリア王、メソポタミア王を名乗ったという。
このバグダット放棄を機に、エジプト王国の凋落は始まったのである。
約束は破られるためにある!先の停戦条約など知ったことか!っと宣戦。
エジプトと周囲の弱小イスラム勢力を平らげ、ペルシア王、エルサレム王、アラビア王、エジプト王を名乗る。
さくっと終わるはずが、エジプト王戦死→どっか別の公爵が相続?→占領地リセット
というイジメを何回もくらい、結局4年もかかりました。
また、アレキサンドリアがカプア公の下から反乱独立ので、おいしく頂きました。
パレルモは反乱ばかり怒ってイライラするので臣下に下賜。
その後、東の果てのイスラム国も滅ぼし、イスラム勢力は全滅。
(臣下として残ってますが、そのうちカトリックに改宗しますし。)
先帝の不名誉は敵の血で以って晴らすべし!との号令の下、第二次クマン戦争が開始された
バグダットから南へ、ビザンティンから東へ、さらにはルーシ諸侯は南へ、ペルシア諸侯は西へ。
全方面から各数万の兵が出立し、クマン包囲網の前にクマン族も膝を屈するかに思えた。
【クマン諸侯をこちら側につけ、瀕死のクマン族。直轄領12って…】
しかし遠征途上、ディートヒッリ皇帝は戦傷を負い、それが原因で数日後に死去。
遠征は途中で中止され、クマン族には皇帝崩御を隠し通したまま和平が結ばれることとなった。
ディートリッヒ帝は、イスラム勢力を滅ぼし欧州をその脅威を取り払ったことで
教会から大帝(Emperor)を送られている。
先帝と同じく対外政策に熱心な皇帝であったが、
帝国の強大化に伴い諸侯の反乱や謀反に迅速に対応できない面もあった。
いまだにドイツ王国時代からさほど進歩していない統治システムのまま、
急激に拡大を果たしたことが原因であるが、
それでもなお、帝国が繁栄を続けた要因のひとつとして彼の才覚があげられよう。
しかし勝利と栄光で彩られた彼の統治下で多くのイスラム教徒が弾圧・鎮圧され、
カトリックへと改宗せざるを得なかったという暗い側面があったことを忘れてはならない。