ドイツのヴァイマール市立歴史資料館の倉庫の片隅に、ボロボロになった羊皮紙の束が無造作に保管されていた。
冒頭にはこう書かれている。
「ここにヴァイマール家の年代記を記す。我が祖先が代々仕えてきた主君の事跡を記録に留めんがためである。」
年代記は1066年、大ブリテン島のヘイスティングスにおいて、征服王ウィリアムが勝利を収めた年に始まる。
ヴァイマール家は、代々ドイツ北部の地ヴァイマールに土着してきた貴族である。1066年における当主はアリボ伯爵。36歳、独身。
ヴァイマールは決して豊かな土地とは言えない。森林の多い未開拓地である。加えて、宮廷に仕官するものは3人しかいなかった。
主君はチューリンゲン公ルードヴィッヒ。チューリンゲン公は直轄地チューリンゲンの他に、隣国ラウジッツを属領としており、計3カ国の支配者である。
チューリンゲン公国の北東にはブランデンブルク公国、北西にはザクソン公国、南東にはマイセン公国、南西には神聖ローマ皇帝の直轄領が広がっていた。
1067年、ヴァイマール伯は隣国ラウジッツの宮廷から若干18歳のうら若き妻を娶った。同年中に長女ビンヒルデが誕生する。
翌年、世継ぎとなる長男オルドゥルフ誕生。さらに翌年、次男ウルリッヒ誕生。その翌々年には次女ウルスラ誕生と、おめでたが続いた。
1072年、領内の聖職者が集団で伯爵に抗議を行った。収入を増やすために、商工業者に権限を与えすぎたことが布教の妨げになっているというのである。
同年、三女ウテ誕生。翌年、身重の妻は病を患った。その翌年、病身ながら三男グントラムを出産。
1077年、妻は家事の最中に倒れ、そのまま帰らぬ人となった。享年28歳。
妻が天に召された悲しみに暮れる間もなく、驚くべき知らせが舞い込んできた。マイセン公オットーの死により、ヴァイマール伯がその地位を継承したというのである。調査を命じると、確かに故オットーはヴァイマールの血筋であった。
かくして、ヴァイマール伯アリボ改めマイセン公アリボは、突如2カ国の直轄地と1カ国の属領を従える公爵に成り上がった。
しかし、領地は増えても土地は痩せており、収入は少ないままだった。加えて、マイセンの南東には、数年前に神聖ローマ帝国から独立を宣言したボヘミア王国があり、潜在的な脅威になっていた。
1082年、属領であるラウジッツ伯がマイセン公の意に背き、謀反を企てる事件が発生。謀反は未遂で終わったものの、マイセン公には属領を併合する正当な理由が出来た。
翌年、長女ビンヒルデが成人。母親譲りの賢明さと公正さで宮廷内外の陰謀に目を光らせることになる。ビンヒルデの元には求婚の申し込みが殺到したが、娘を溺愛するマイセン公はすべての申し出を即座に断った。
2年後、公務の疲れからか、数十件の求婚をことごとく父に断られたためか、哀れなビンヒルデは心労から狂気に侵された。悪魔の所業である。失意のマイセン公は娘を公務から外し、代わりに成人した長男オルドゥルフをその任に充てた。
1087年、マイセン公アリボは没した。享年57歳。
死後、教会によって聖人の列に加えられ、領民からは純潔公アリボと讃えられた。これは妻の死後、侍女に手を付けることはもとより、後妻を娶ることも拒み続けたためである。
この時、長女ビンヒルデは重い欝病に陥っており、父の葬儀に参列することもかなわなかった。
マイセン公の地位を継いだのは長男オルドゥルフである。弱冠18歳。街の豪商を宮廷に招いて公国の外交を任せる等、見知らぬ者を信用する面がある一方、裏切り者に対しては執念深い側面もあった。