父王の死去により若干1歳の国王が生まれることとなった。当然政治を自ら行えるわけも無く家臣一同の会議により運営が続けられることとなった。
特に大きな動きは行わず治世は滞りなく進められた。しかしエウデスは6歳のときに鬱病にかかってしまう。部屋に閉じこもり人と顔を合わさなくなったのだ。
1127年大叔父ユーグの息子であるオーブリーに僻地ともいえるマジョルカ島及びその属領を譲ることにしマジョルカ公爵を名乗ることを許した。長年のユーグの忠誠心に対する国王からの返答でもある。このときユーグは70歳を超えても健在だったが長年の辛苦からか頭が狂い屋敷から一歩も出ない有様であった。
1130年一時外にも出ないほどひどかった鬱病が家族の看病のかいもあり快癒した。宮廷内では姉達の敬虔な祈りが神に通じたと噂された。再び国王に笑顔が戻ったと宮廷では感謝の礼拝が行われたという。
さまざまな出来事があったが1132年15歳になったかれは宮廷内での教育を終えすばらしい統治能力を得ることと成った。また若くして国王になった彼は早熟であり王国内の政治に対しても感心を持つこととなったのである。
そうしたかれが関心を持ったのはフランス王国からはなれ独立したサントーニュ伯爵領に関してである。早速軍隊を召集し討伐へ向かった。国王と伯爵では力の差が圧倒的でありあっという間に伯爵領を占領。これを召し上げ直轄領とした。
こうして彼は無事16歳となり成人し自ら国政を行える年齢と成った。かれがまずしないといけないのは自らの王妃を探すことである。その頃ドイツは酷い状態であった。ドイツ王家は混乱の中自らが保持していたブルゴーニュ王の称号を親類に譲り、ブルゴーニュは独立した国として成立していたのである。エウデスが見定めたのは現国王の長女ギセーラ。彼女との婚礼は無事に終了し新王妃が誕生することとなった。もちろんこれは政略結婚である。
1134年長女ソフィーが誕生。翌年には次女ブランシェが誕生した。
娘の誕生を確認すると彼は始めての戦争に赴く。彼の祖父が始めた大事業、イベリア半島をキリスト教徒の手に取り戻すことを再開するためだ。祖父の時代から50年も経ちイスラムの攻勢はとどまることが無かった。アラゴン王国、ナバラ王国がイスラムの手に落ち既に地上から消え去りイベリア半島の主なる王国は全て滅亡していたのである。祖母にカスティリア王国の出身を持つエウデスがレコンキスタの事業を引き継ぐのは当然だと思われたのである。
今回の目標は祖父の時代に討伐したバレンシア太守の配下だった土地である。バレンシア太守が滅びてからは独立しその領土を細々と守っていた。祖父の時代から50年あまりが過ぎフランスでは軍事技術が格段に進歩していた。それゆえ祖父の苦労を味わうことなく目標を達成したのである。
1136年には三女メリサンデが誕生。女子が多いのはカペーの血がなせる業なのかまたしても女子であった。傍系では男子がうまれてることから家系が途絶えることは無いがエウデスにしては悩みの種であった。
カスティリア王国に嫁いでいた叔母の次男、ロミオが叔母とともにフランス王国に亡命してきた。国無き彼らに対しエウデスは暖かく向かえ一族を妻に与えた。いずれはイベリア半島に領土を与えることも検討しなければならないだろう。
1137年長男のルイが誕生。王家では盛大な洗礼式が行われ、名付け親であり一族の最年長であるルイ(フィリップの弟であるユーグの孫)が自らの名前を与え嫡男誕生を祝った。また彼は母の関係で目論見どおり、ブルゴーニュ王家の第三後継者の地位も有することとなる。
1140年長老ルイの長男であるグイにサラゴサ伯の称号と領土を与え長老に対する敬意をあらわした。長老自身に与えることを最初エウデスは考えたが、長老自身の固辞により息子に与えられたのである。
1842年には4女アディエが誕生。久々の子供誕生にエウデスは喜んだという。彼は国外への進出よりも家庭内で楽しむほうが好きな性格であった。また戦争自体を恐れていたとも言う。
1143年にエウデスは重い腰を挙げレコンキスタ事業を再開した。今回はグラナダの攻略が目標である。既に富にあふれる直轄地を有する彼にとって全軍を派遣するほどのことも無くわずか2ヶ月の戦闘でこの州を平定することとなった。グラナダは半島の中でも裕福な地で有名で彼はますますその勢力を増すこととなる。
そしてこの年長老ルイが死去。48歳という若さであったが、ルイの血統であるユーグ家の後は長男の息子であるアランが後を告ぐことと成った。わずか10歳である。
1144年祖母の出身地であるカタロニア公爵の正当性を彼は主張することと成る。この強引さに国内はもとより国外からも悪意をもった噂で迎えられたがエウデスは動じることがなかった。というのも正当性主張するのみで特にすぐに位を奪うことを考えてなかったのである。周りが気がつかない忘れた頃にが彼のモットーであった。
同年6女マハウトが誕生。
1147年にエウデスは大病を患うこととなった。しかし翌年7女イブが誕生。1150年には8女マスカローズが生まれることと成る。病とはいえ戦争に自ら赴けない程度で国内の統治、家庭内の営みにはまったく問題が無かったのである。
1151年次女ブランシェが成人。父親譲りのすばらしい統治能力を見せ執事として家計全般を預かることとなった。娘の立派な成長に親としてエウデスは目を細めたという。
1153年彼にとって世間から忘れられたことを実行するときがやってきた。カタロニア公爵の地位を自らの手に押さえることである。エウデスは自ら戦闘せず半島の直轄地からの兵力を持ってカタロニア公爵の地位を奪ったのである。このことによりカスティリア公爵はバルセロナ伯爵となり、彼の属国は元公爵を裏切り王国の家臣となった。
同年息子ルイとミラノ公長女ラウラの間に婚姻が成立。ルイはカステリオン伯の地位を地位を与えられた。
同年エウデスは病を押してバレンシアの地に赴くこととなる。本来ではバルセロナで行いたかったがかの地は王国の領土とはなっておらずバレンシアでアラゴン王の即位式を行うことと成ったのである。このことはヨーロッパのキリスト教徒にたいし大いに勇気を与える事件となった。イスラムから3分の1ではあるが土地を奪い返し一時は滅びた王国をキリスト教徒の手で復活させたのである。これを見たバルセロナ伯は王の勧めに応じ王国の一員となることを認めた。
1154年法王は国王に対し教会の力をもっと増すようにとの干渉を行ってきた。破門をちらつかせての恫喝に宮廷内では急進的な意見も出されたが、破門を受けることはすなわち王国の崩壊とつながる危険性を感じたエウデスは法王の使者に対し受諾の返答をしたという。
1160年エウデスの病は悪化し回虫が腹の中に居ることが判明した。しかし統治には支障が無かったという。その年44歳という高齢ながら神のご加護で妻が次男を無事に産んだ。名をアーチェムバードと名づけたという。
1164年エウデスは直轄地に号令を発し全軍を召集した。その兵力3万にも達したという軍隊が目指す先は聖地エルサレム。ファーティマ朝は分裂し聖地エルサレムを治める太守は独立していた。
1165年5月フランス軍はついに聖地の門をくぐることとなる。