1161年、悪名王とも悪名公ともよばれたブルゴーニュ王レンドルの死後、彼の長男フィリップが
ブルゴーニュ王に即位し、フィリップ1世を名乗った。フィリップはまだ10歳の少年であった。
この継承は何の問題も起こらずに速やかに行われた。この様な事は初代レオン以来初めてのことであった。
つまり、彼は生まれた時からこの一族の当主の座を約束されていたのである。
そして、彼には一族とブルゴーニュ王の名誉回復という責任のある仕事が待っていた。
彼はこの歳にして卓越した統治能力を誇り、継承した直轄領にある小さな穴すら見逃さないほど細かい統治を布いた。
だが、ブルゴーニュ地域以外の土地にまったく興味を持たなかったため、
ワルウィック地域やバスク地域に配置された家臣団はこの少年王に対して反感を持っていた。
即位した翌年1162年、ブルゴーニュ地方の一領主であるマルモ伯がブルゴーニュ王国を侮辱した。
フィリップはここぞとばかりにマルモ伯に対して宣戦布告を行う。
マルモ伯は君主である南イタリアのキャピュア公に援助を求め、キャピュア公も戦争に参加した。
しかしブルゴーニュ戦争の疲れがあるとはいえ、一伯爵がかなうはずも無くマルモはブルゴーニュ王国に併合された。
その一方でキャピュア公の土地も征服し、彼からブルゴーニュにあるクレーム全て排除と多額の賠償金を受け取った。
だが、南イタリア進出を考えていなかったフィリップは彼から領土も公位も取ることは無かった。
そのため、一族やブルゴーニュ王国への名誉は回復の兆しが見えてきた。
しかし、フィリップのブルゴーニュに対する執着は相当のものであった。
彼は残虐公ルイを見習い、自分の方針を家臣団に説明をした。
まず、いまだ保持できていないブルゴーニュ地域の回収とその土地の属する公爵位を取ることを明言した。
そして、ルイの掲げたドルフィン、プロヴァンス、サヴォイ、シュバイツの4公爵体制ではなく
新たに、フランス国王が保持しているブルゴーニュ公と、ラングトック公を加えた6公爵体制とすることとした。
この体制ではブルゴーニュ公領が多くなりすぎない様に、
ブルゴーニュ公領の西部を王の直轄とし、ドルフィン公領は王自身が支配することを宣言した。
あとブルゴーニュ王に関わりの無いラングトック公が入った理由は、
そのうちの1領であるヴィヴィエルがルイの時代から支配してきた事があるてめである。
このフィリップの構想を大ブルゴーニュ構想という。
1166年、ここにきて遂にバスク地方のラボール伯がブルゴーニュ王に対して独立戦争を仕掛けてきた。
フィリップは自らの威信を高めるため鎮圧に乗りだした。
このとき、ブルターニュ公がラボール伯の後ろ盾となったが、そんなことはフィリップには関係なかった。
ブルターニュ公の直轄領とラボール伯の領土を全て制圧し、両者から賠償金を受け取り、
ブルゴーニュ王国領のクレームを外させた。この勝利によってフィリップの威信は更に高まることとなった。
1168年、更に今度はイングランドの地でワルウィック公が反乱を起こす。
やはり王と公の格の違いを見せつけ、あっさり鎮圧することが出来た。このときもラボール伯と同じように
賠償金とクレーム外しのみ要求し和解した。
フィリップにとってはワルウィック公領は持っているだけ邪魔な物であった。
そのため彼らの独立を認め、ブリテン島からブルゴーニュ王国の領土は無くなった。
だがこの年、隣のフランスでは王家が断絶する騒ぎが起きた。
仕方なくフランス家臣団はオルレアン伯の長男アンリを擁立した。
これに不満を抱いたトゥールーズ公とアルマニャック公は独立を宣言。そのまま内紛へと発展していった。
1169年、フィリップはベルン伯であるフィリップ2世の次女アンリエッタを妻に迎える。
民衆たちや家臣団はこのことを祝福した。特に、舅であるフィリップ2世が最も喜んでいた。
その頃、隣のフランスでも内紛が終結してトゥールーズ公とアルマニャック公はそれぞれ独立を勝ち取った。
これを機に、プロヴァンス公アンドレはフランスを叩くべしとフィリップに断言したが、
ブルゴーニュの兵の疲れを考え、これを却下した。
1170年、デンマーク王国から同盟要請の使者が来る。フィリップはこれに応じた。
このことは、フィリップの運命をも左右する結果となる。
この年、サヴォイ公マウグスと彼の息子でジュネーブ伯クレメントとの間に亀裂が生じる。
フィリップは一族の当主としてこの仲介に入り、ジュネーブ伯を自分の属国とすることで合意をした。
この事件での処分として、サヴォイ公マウグスからヴィヴィエルを奪い、王の直轄領とした。
フォルカルフィエ伯ギョームの次男ルイが亡くなる。
ギョームはこのことでショックを受け自分の城にひきこもってしまう
1172年フィリップに長男が生まれる。名前は祖父の名と同じゴーシュと名付けられた。
この年は多くの子供が生まれた。
フォルカルフィエ伯ギョームの三男シモンには息子シャルルが、四男ウォルターには息子ウィレムが誕生する。
さらに、フィリップ2世の長男ラウルにも息子トリスタンが誕生するなど一族は幸福に包まれた。
1176年、フィリップのもとにデンマーク王から救援要請がきた。
なんとイングランド王、スウェーデン王、フランス王から宣戦布告をされたというのである。
フィリップは考えた結果、フランス王国に対してのみ宣戦布告をした。
その理由として、大ブルゴーニュ王国計画を遂行するチャンスであったためである。
フランス王に対してブルゴーニュ公の地位にクレームをつけたが、ラングドック公は彼が持ってなかったのである。
実は、トゥールーズ公が独立の際にフランス王から奪っていたのである。
フィリップはブルゴーニュ公を構成するシャロン伯とディジョン伯にも宣戦布告をした。
だが、シャロン伯はポワティエ公とシャンパーニュ公と、
ディジョン伯はフランドル公とそれぞれ同盟を結んでおり、この対フランス戦争はフランス全土を巻き込む戦争となった。
フィリップは仕方ないと判断し、全てを相手にすることを決めた。
まず、ブルゴーニュ王国軍はディジョン伯へ侵攻。サヴォイ公軍はシャロン伯に侵攻した。
ディジョン伯は1領しかなかったので一ヶ月もせずに降伏し、ブルゴーニュ王国に編入した。
シャロン伯はシャロンとシャローニュの2つからなっていたため、サヴォイ公は守りの薄いシャロンから侵略した。
一方のシャローニュはディジョンを落としたばかりのブルゴーニュ王軍13000が侵略し、
シャンパーニュ公とシャロン伯の連合軍5000と激突した。
この戦闘でシャンパーニュ公とシャロン伯の連合軍は壊滅し、シャローニュが陥落する。
その頃、マウグス率いるサヴォイ公軍はシャロンを落とし、シャロン伯は降伏を選択した。
この結果、シャロンとシャローニュもブルゴーニュに編入された。
しかし、フィリップのもとに斥候からマルモとフォーツが
フランス王とポワティエ公の連合軍に陥落させられたことを知らされた。
このままではいけないと判断したフィリップはプロヴァンス公アンドレとベルン伯フィリップ2世に出兵要請を行った。
そして、ヴィヴィエルの地でフランス王軍10000とプロヴァンス公軍9000が激突したのである。
このヴィヴィエルの戦いはプロヴァンス公軍が勝利するも、フランス軍はまだ6000ほどの兵が残っていた。
ポワティエ公軍6000はリヨンに侵略、そこでベルン伯軍3000と戦う。
しかし、兵の質はベルン伯軍のほうが上であったため、ポワティエ公軍はほぼ壊滅状態となった。
ここでフィリップは手薄になっているポワティエ公領にプロヴァンス公軍を進軍させるようアンドレに伝え、
プロヴァンス公軍はポワティエ公領を次々と征服した。
この結果、ポワティエ公から莫大な賠償金をもらい、ポワティエ公はこの戦争から脱落した。
その頃、フランス占領下のマルモの地ではブルゴーニュ王国軍11000と
ヴィヴィエルから帰還したフランス王軍6000が衝突。
連勝中のブルゴーニュ王国軍とヴィヴィエルで敗れ戻ってきたフランス軍の士気は
雲泥の差があり、フランス王国軍は壊滅状態となる。
そして、マルモの地を取り戻したブルゴーニュ王国軍はアーヴェルニュに侵略。
そこでプロヴァンス公軍4000と合流し一気にアーヴェルニュを占領した。
しかし、この戦いでフィリップは大怪我を負ってしまう。
ブルゴーニュ王国・プロヴァンス公国連合軍がイル・デ・フランスに進軍途中、
ディジョンにフランドル公とシャンパーニュ公の連合軍12000が進軍していた。
これには自分たちで当たらないとつぶせないと判断したフィリップはディジョンに転進した。
そして、ディジョンの地でこの戦争最大の戦いであるディジョン攻防戦が起きる。
ブルゴーニュ王国・プロヴァンス公国連合軍13000対フランドル公・シャンパーニュ公連合軍12000が激突した。
徐々にブルゴーニュ側が押していくが、フランドル側にフランス王国軍10000が援軍として来たのである。
この援軍に対応するように、フィリップはサヴォイ公軍8000を援軍として呼び寄せた。
この戦いは死者が3万人近く出た当時最大の戦いとなった。
結果はブルゴーニュ側に軍配が上がり、フランドル公とシャンパーニュ公は講和を申し入れることとなる。
この2公爵からも多額の賠償金を手に入れ、残るはフランス王国のみとなった。
一方のデンマーク王国はスウェーデン王国、イングランド王国と不利な条件で講和していた。
そのため、フランス王国に対して猛烈な攻撃を仕掛けていた。
ディジョン攻防戦の最中、デンマーク王国軍がイル・デ・フランスを占領。これによりフランス王国は戦闘不能状態となる。
デンマーク王国はフランスから一万を超える賠償金を手に入れフランスの地から去っていった。
ブルゴーニュ王国もデンマークが去った後のイル・デ・フランスを占拠し、
ブルゴーニュ公位の獲得とブルゴーニュ王国内の全ての領土からクレームをはずすことを条件にフランス王国と講和を結んだ。
この戦争をフランス戦争という。
フランス王国はこの戦争での敗北により南フランスの領主達の独立を次々と認めていくことになる。
この翌年、フィリップは宮廷司祭となっていた叔父ジョフリーにブルゴーニュ公位を渡した。
ジョフリーは司教として領土をもらいたがっていたが、フィリップの説得でブルゴーニュ公となることにした。
ジュネーブ伯クレメンスが持病の悪化によりこの世を去った。33歳の若さであった。
その後継には彼の長男で14歳のエスタークが継いだ。
フィリップは戦いの傷が癒えて、気持ちを新たに政務に取り組もうとしていた矢先に破傷風にかかってしまう。
司祭や一族の祈りも届かず、27歳の若さでみなに惜しまれながらこの世を去った。
彼は死後、すばらしい政務と軍務の才に恵まれたことから賢王の称号を与えられた。
だが、彼の後継選びは大きな問題であった。
その理由として、彼の遺児ゴーシュはまだ5歳であり、政務につくべきではないと言う意見が家臣団内で多数を占めた。
他の後継候補はフィリップの叔父に当たるサヴォイ公マウグスやブルゴーニュ公ジョフリーの名前が挙がった。
だが、彼らは一様にフィリップの後継となることを拒んだため、まだ幼いゴーシュが新しいブルゴーニュ王となった。