マゾフシェ公プルツェミスラフ(画像)は十字軍戦士となるべく生まれたような人物で、
すでに異教の地であったダンツィヒの伯時代に同地をカトリックに改宗させる功績をあげていた。
現国王プルツェクラフとは従兄弟の関係で互いの父親同士のように親しい間柄。
プルツェミスラフには軍事に傑出した能力(21pt)を持つ弟ヤセクがおり、元帥として重用。
直轄地は上画像東からプウォツク(本拠地)、クヤヴィ、ダンツィヒ、ホルシュタインの4領。
請求権に関してはベーメン、ノルウェーに2、3程度。
1113年に公位にのぼったプルツェミスラフは弟ほどではないが、軍事の才があった。
その能力がさっそくメクレンブルクの地で実証されることとなった。
メクレンブルク族に対する1115年からの遠征で、マゾフシェ公軍は先陣を切って
部族兵の待ち受けるヴェルレへ進軍した。
マゾフシェ公軍約4000、メクレンブルグ族軍3500弱が激突したこの戦いはマゾフシェ公軍が大勝、
もはや抵抗する術を失ったメクレンブルグ族の本拠地メクレンブルクを陥落させ、
メクレンブルクの割譲・ホルシュタインへの請求権放棄と賠償金支払いを受け入れさせて講和し、
ホルシュタインの地をこの戦役で功績のあった弟ヤセクに与えた(ホルシュタイン・ピアスト家)。
ポーランド王もすでに発動していた十字軍遠征のためか、領土割譲なしで和平を結んだ。
ポーランド王プルツェクラフはメクレンブルクから兵を引きあげてすぐにイェルサレムに向けて遠征の途についた。
友人としてポーランド王に傭兵3000名を贈ったプルツェミスラフも自ら軍勢5000を率い、聖地奪還の兵を進めた。
しかし、プルツェクラフ王は聖地にたどり着くことはなかった。
1117年、聖地まであとわずかというところで突如発作を起こし急死してしまったのだ。
そして有能な指揮官を欠いた国王軍はイェルサレムのイスラム勢に撃破され壊滅してしまい遠征は頓挫。
プルツェミスラフは従兄であり、主君であった友の死に深く落ち込み、緒戦で勝利はしたものの、
友が息絶えた地から離れたかったのか、イスラム勢の賠償金要求を受け入れて直ちに兵を引いた。
ポーランド王国としても王位を継承したボルコ王(前王の弟)によって講和が締結され、戦役は実質的敗北で終わった。
プルツェミスラフの妻イングフリドはスウェーデン貴族の娘であった。
プルツェミスラフが公位に就いた際にはすでに2男1女をもうけ、夫婦仲も悪くはなかった。
彼女は財政のスペシャリストであり、家令としてダンツィヒ伯時代から辣腕を振っていた。
しかし、彼女が若い廷臣と浮気をしたのがきっかけとなり全てが狂い始めた。
プルツェミスラフは妻の過ちに対し、強く叱責を行った。
だが、あろうことかイングフリドはその叱責を逆恨みし、「プルツェミスラフは冷酷非道である」などと
公爵に関する根も葉もない誹謗中傷を撒き散らすようになった。
さらに、国庫から大量の金が引き出され行方知れずになる事件も発生した。
プルツェミスラフは激怒しつつも彼女が正気に戻るのを信じ耐え続けた。
しかし…
この陰謀によって離反するものは皆無であったが、もはや座視しているわけにはいかなくなった。
まもなく、公の執務室に密偵頭が呼ばれた。
マゾフシェ公夫人にして家令であるイングフリドは「病死」した。
2年後、ハンガリーの公爵令嬢ヨランと結婚し、翌年男子が誕生した(後のマゾフシェ公ラスロである)。
三人目の男子の誕生にプルツェミスラフは大いに喜び、長年悩まされていたストレスも
この時期に消え、再び全力で公務に励むことができるようになった。
だが、次に妊娠した子供を流産したのち、ヨランはストレスを抱えるようになってしまった。
その後再度妊娠したが、妊娠中に心の病は鬱病へと深刻化してしまい、ついに1128年自殺してしまった。
…
ヴラディスラヴ公が奥方(デンマーク王の娘、1115年死去)と仲睦まじく暮していたあの頃の宮廷は良かった、
そう嘆く廷臣もいたとのことである。
家庭内での悲劇と同時に、この頃ポーランド王との関係も険悪になっていた。
発端は再度のメクレンブルク族討伐であった。
当時、神聖ローマ帝国はフランケン家の当主が破門されたことがきっかけとなり、
諸侯入り乱れての内乱が勃発していた。帝国北部の諸侯の多くも皇帝に反旗を翻した。
これに他国が乗じないわけはなく、メクレンブルク族はがら空きのブランデンブルクを
奪取していた。
プルツェミスラフは兵を動員し、ブランデンブルクを包囲し陥落寸前に追い込んだ。
そこで突如ボルコ王が部族と講和してしまったのだ。
これではおさまりがつかぬプルツェミスラフは不評を買うことを覚悟の上で再宣戦を行い、
当地を占領し、奪い取った(その後メクレンブルク族は残りの領土も失って滅亡)が、
王をひそかに恨み始めていた。
決定的になったのは翌々年に行われた馬上槍試合にてボルコ王がプルツェミスラフを公然と侮辱したことであった。
プルツェミスラフは即座に謝罪を要求したが、この一件の後、互いを敵と認識するようになった。
数年後勃発したハンガリー戦役でボルコ王は東西南北から攻め入るハンガリー軍に敗北し、
またもやポーランド王領割譲によって講和が結ばれた。
王の権威は失墜していたが、それでもなおプルツェミスラフは臣下としての責務を怠ることはしなかった。
この混乱の中、中程度の国力の王国が分裂して争うことは不気味な沈黙を守る北欧諸国や
ハンガリー王国、ベーメン王国に隙を見せるも同然だからである。
そのため、ボルコ王とは敵対しつつも戦争時には諸侯軍最大の軍勢として常に参戦した。
ハンガリー戦役でも約1万余の兵を提供し、王国軍の一翼を担い続けたのであった。
この貢献によるものか、徐々に王との関係も緩和されていったようで、1136年頃には
「お人好し」のプルツェミスラフが譲歩する形で敵対関係の解消を行うに至った。
神聖ローマ帝国の混乱は他国にも波及し、ベーメン王国も王の破門で瓦解寸前に陥る中、
マゾフシェ公領はさらにハンブルクを奪取しホルシュタイン公を創設した。
ハンブルクはメクレンブルク伯に封じられていた長男プルツェミスラフ2世に与えられた。
すでに60近いプルツェミスラフ(1世)は逸材との呼び声高い長男を高く評価しており、
ゆくゆくは公位を当然継がせる心積もりであった。
だが、1137年に突如病に倒れたプルツェミスラフ2世は翌1138年初頭、息を引き取った。享年31。
メクレンブルク・ハンブルクの両伯領は彼の息子が継承した(メクレンブルク・ピアスト家)。
この頃、それまでの抜群の戦績による名声のために複数の諸侯から臣従の申し出が舞い込んできた。
その中でも特にリューベック伯の申し出は大きく、もはや北ドイツをほぼ手中に収めたも同然であった。
だが、このマゾフシェ公の伸張を苦々しく思う人物がいた…ポーランド王ボルコである。
1138年、ポーランド王国、マゾフシェ公に宣戦布告。
この危機でプルツェミスラフは一度は周辺王国への臣従も考えた。
だが、頼りになりそうなベーメン王国(破門王の後、勢力を一気に盛り返し南独も支配下)は
十字軍により領土に兵はほとんどなく、また臣従した際に領土割譲を要求する可能性も非常に高いと思われた。
それゆえ、単独でボルコ王に立ち向かうことを決意した。
ポーランド王の直轄地動員力は王領3か所をハンガリーに奪われながらもいまだに
ポーランド最良の地を中心に領有していたためかなり大きなものであった。
もし各軍勢が集結してしまったらもはや止める術はない。
さらにはブルガール地方とシリア地方(アレッポ)に直轄領があり計10か所を同時に抑えることはかなり困難。
よって作戦としては速やかに兵力の源である王都周辺の州を略奪し、継戦能力を断つこととした。
プルツェミスラフは大動員令を発令、全直轄領及び全封臣に動員命令を出した。
作戦は公領本拠地プウォツク周辺の直轄領兵中心の軍団(公爵軍:約1.2万)とブランデンブルク及び北ドイツ兵の軍団(元帥軍:約1.5万)の二手に分かれ、前者は集結前の王国軍主力の撃破、
後者は西から王国諸侯の軍を破りつつ占領という任務となっていた。
公爵軍は全軍をもって王都シュラツク・ウェンチツァを奪取し、防衛に当たっていた
ボルコ王を敗死させ、彼との長年の対立に終止符を打ったが、その後次々に挑んでくる王国直轄軍との戦闘で大きく消耗し、
再編成のため、一時撤退を行った。王国軍は7000余りの兵力をもってクヤヴィに侵攻したが、
元帥軍から分割した部隊の救援によって撃破された。その後公爵軍も王国軍も小競り合いに終始したが、
その背後では王国諸侯を破ってもなお数千の兵力を持つ元帥軍によって各地が制圧されていった。
この頃から両者に講和締結の雰囲気が流れるようになっていた。
ボルコ王の死後即位したのは3歳の幼王で、もはや継戦能力は無きに等しいものだった。
また、ボルコ王の宣戦で始まった戦役であるが、プルツェミスラフは王家を滅ぼそうとは思いもしてしなかったし、
このまま飛び地を含む全王国領を奪うのには多大な費用・時間が必要であり、
ポーランドの各地に請求権を持つベーメンやハンガリーにこのまま隙を見せ続けるのは得策ではない、
という客観的な判断からもこれ以上の戦闘は行わない方向に傾いていった。
最終的に、ポーランド王側からの和平提案を受け入れて内戦は終結した。
1139年に内戦が終結したのち、プルツェミスラフはすぐにポーランド王に忠誠を誓った。
ボルコ王亡きあとの王家に忠誠を誓うのは当然とばかりであったが、これは幼王にとっては
力強い支持勢力と映ったであろうし、周辺国はポーランド分割の延期を余儀なくされたであろう。
王直轄領に対し、緒戦で占領した地域以外は略奪をおこなっていなかったため、領地の回復は早かったが、
幼王は和平後まもなく崩御し、またもわずか1歳のヤクブ王が即位したため、混乱から立ち直るにはもうしばらくの時間を要した。
一方マゾフシェ公は3人目の妻ベアトリクス(ベーメン王女)との間に3男1女をもうけていた。
だが、30歳年下の彼女もまた、プルツェミスラフよりも先の1143年病死してしまった。
1145年から始まったリトアニア・モルドヴィン戦役はマゾフシェ公軍が常にマゾフシェ公が主力として戦闘に参加した。
勝利の一方、損害も大きく、肝心の領土については王家に多くを取られてしまい、
ズドヴィアを得ただけに留まったが、その名声・信仰心は大陸に轟くほどになっており、
プルツェミスラフはそれで満足した。
永年十字軍士ももう年を取りすぎたのだ。
1149年、モルドヴィン族の小部隊を相手に勝利したのがプルツェミスラフ最後の勝利となった。
1150年6月老衰にて死去。享年71。公位は三男ラスロが継承した。
不幸が度重なりながらもプルツェミスラフが混迷の時代を上手く泳ぎ抜いたことで、
マゾフシェ公は東欧有力諸侯の1人に数えられるまでになった。