ブリタニアの再興

前の栞../ブリタニア列王史 第13巻 第1章

第6章

マルク公の即位後数年間は母アリードが摂政となった。
コナン公の補佐を長く勤めていた経緯もあり、混乱は見られなかったようである。

彼女はコーンウォール女公*1でもあったため、しばしば利益誘導の感のある政策を行っている。
その際たるものがイングランドへの臣従である。

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先の大乱でフランス国内諸侯との関係が悪化したことで外交上の選択肢が大きく狭まっていたとはいえ、
当時ブルターニュには差し迫った脅威は無かったため、この臣従は大陸側貴族には大いに不評であった。

マルク公自身、「父上とイングランドとは対等な同盟者であったのに、何故私は臣下に甘んじねばならないのか」と不満をこぼしている。*2

1089年、マルク公が成年を迎え、結婚相手を決めることとなった。
アリードを始めとする親英派はエディス王女を推したが、
マルク公は「私はサクソン語なぞ話せないし、覚える気もありません。王女とて我等の言葉や、フランクの言葉が話せるわけではないでしょう。
私はラテン語で会話しなければならない妻など迎えたくありません。」と拒絶。

母の思惑を退けた彼が望んだ結婚相手は、隣領ノルマンディー公女、エリーゼであった。

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遠い祖先の北方の血が濃く出たのか、銀髪が評判の美女であった

互いに激しく敵視しあったコナン公、ギヨーム公の時代からは十数年もの月日が流れており、直接のわだかまりを持つ人間は既に第一線を退いていたこともあって、
ノルマンディー公家との関係の修復は速やかに進み、結婚の申し出はすんなりと受け入れられる。

マルク公とエリーゼ公女との婚姻は、両家が再び良好な関係を取り戻したことの象徴となったのである。

第7章

旧来の外交方針-反ノルマンディー政策とそれに伴う対英追従-を大幅に変更し、親政の第一歩を成功させたことに自信を深めたマルク公は次々と新たな施策を打ち出していく。

・ローマ法の学者を高給で召抱え、貴族、聖職者の権力を制限した集権的国法を制定
・それを財源として農村の余剰人口に訓練を施し、軍の規模を増強
・彼らを用いたブルターニュ全土での道路等の建設
・ノルマンディーとの交流の活発化

これらの改革により、ブルターニュの経済は大いに効率化されたという。

しかしながら、全てが順調というわけにはいかなかった。

独裁的な彼のやり方に反発するものも多く、一部の臣下はブルターニュを離れていった。
その中には姉夫婦や母までもが含まれる。

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批判者達の目にはマルク公は単なる権勢欲の強い浪費家としか映らなかったようである。

・・・まぁ、実際彼は金遣いが荒かったのだが。

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救いがない浪費家にして管理14

思いつきで大きな出費をすることがあまりに度々であったため、廷臣や他国の間諜も目的について一々詮索することは無かったらしい。

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第8章

1092年、大乱に勝利し自領を一大勢力へと育て上げた英雄、アキテーヌ公ギーが死去。
後を継いだ長子ポンスは妄想に耽溺するばかりで、到底君主の器ではなかった。

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分裂症持ちで狂信的。先妻の息子であり、年の離れた姉(彼が幼いうちに嫁いだ)を除いた弟妹は皆後妻の子であった。
孤独な幼年時代が彼の精神を蝕むきっかけだったのだろうか。

彼はこの頃流行し始めた騎士道物語「ローランの歌」を聞くや、
「これこそ私が求めていたものだ!私はローランのごとき騎士となり、シャルルマーニュの後継者たるアントワーヌ陛下にお仕えねせばならぬ!」と叫び、
アキテーヌ公国をフランスに臣従させてしまったのである。

また、アキテーヌはイベリア半島のムスリム諸国との交易で潤っていたのだが、
彼は「キリスト教徒たるものがサラセンの悪魔どもと取引するなどとあってはならない!」と禁令を出し、
ムスリムから伝わってきたギリシャやアラビアの文献、医療技術等は異教的であるとして破棄された。

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ヒメネス家の諸王国は骨肉の争いの末ムスリムに滅ぼされている (赤のレイヤがかかってる部分がキリスト教国。)
ギー公の下強力に統制されており、天嶮ピレネーを隔てたアキテーヌとは平和共存の道を選んだようだ

先代の治世全てを否定する暴政に不満の声は数多く上がったが、意外にも目立った反ポンス公の運動は起こっていない。・・・少なくとも表向きには。
ただし、彼の在位中にアキテーヌ公家の一族-特に後妻の子供達-や廷臣はその人数を大幅を減らすこととなった。
これが後のアキテーヌ公家衰亡の一端と言えよう。
即位後3年、1095年にポンス公は亡くなった。彼に殺された者の近親による報復であると囁かれている。

第9章

1103年の末、東ローマ皇帝アレクシオスは小アジアに大挙押し寄せてきたセルジューク・トルコの一派とマンジケルトで決戦し、
重騎兵を巧みに用いてこれを打ち破った。しかしながら地元貴族の裏切りによって皇帝自身の命は失われた。
その最後の言葉は「主よ、願わくば我等キリスト者の不和を憐れみ給え。」であったと伝えられる。

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キリスト教と東ローマ帝国の衰退を食い止めようと懸命なその姿は鬼気迫っており、半狂乱とも映った

*3

1105年1月、教皇パスカリス2世はクレルモンで開かれた教会会議にて、
アレクシオス帝の悲劇的な最後と、聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラがムスリムの手に落ち、聖ヤコブの遺骸が無残にも踏みにじられたこととを語り、
「全ての騎士、全ての兵、全ての民は武器を取り、十字架の旗の下に集え!神がそれを望み給うのだ!」と演説。
居合わせた人々は一人残らず「神がそれを望み給う!神がそれを望み給う!」と絶叫した。

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この熱狂は瞬く間に欧州全土に広がった。
全てのキリスト教徒が互いに争うことをやめ、信仰のために戦うことを決意したのである。

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イングランド王はイベリア半島へ。
ドイツ王は北方諸王を統率してバルト海へと。
そしてフランス王はその他全ての君侯を率いてパレスチナへと向かった。

十字軍は輝かしい成功を収めた。
バルト海沿岸では多神教徒は根絶され、イベリア半島ではムスリムはタホ川まで押し戻され、聖地エルサレムはキリスト教徒の手へと戻ったのである!

十字軍の英雄達

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改宗者ゴットシャルクの息子、メクレンブルク公ヘンリク
常に軍勢の先頭に立って果敢に戦った
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エドマンド王の息子、イングランド王エルバルド
父譲りの軍才を大いに発揮した
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エルサレムの解放者、フランス王アントワーヌ
「キリストが磔にされた地で王を名乗るなど恐れ多い」とエルサレム王の称号を辞退し、「聖墳墓教会の守護者」を名乗った

第10章

・・・まばゆい光輝ほど消える瞬間はより冥くなるのだろうか、
熱狂の終焉は実に無残なものとなった。

エルサレムの陥落時にムスリムのみならず正教徒までもが多数虐殺されたことにより正教とカトリックの対立が再燃し、
パレスチナの十字軍獲得地には反乱が頻発するようになる。

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北方では領土の配分を巡って再びキリスト教徒同士が合い争うようになった。

挙句の果てには、十字軍を今もって継続中のイングランド・ブルターニュの留守領に対し、フランス王が侵略して来たのである!


*1 脳内保管。ちなみに統治効率が80%を切ったので折角だしとコーンウォール伯あげてます。
*2 ブルターニュ公位相続時にコーンウォール公としてイングランドに臣従してたため、ゲームの仕様によりブルターニュ公位もイングランドの宗主権下に置かれる。上の臣従の画像はイメージです。
*3 ちなみに経緯は最初の選択法→ディオゲネス家世襲→無能なため選択法に→アレクシオス皇帝に即位、だと思われます。ちょっと史実っぽくて燃えますね! まぁ、03年ごろ東ローマが戦争してる雰囲気はないのでアレクシオス帝は病死かなんかだと思います。すいません。

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