ブルターニュの細かい歴史+レンヌ家(プレイヤーの家)の歴史(後世の捏造含め)とかをのっける予定です。
1066年1月5日、イングランドのエドワード懺悔王が嗣子なくして崩御し、王妃の兄ハロルド・ゴッドウィンソンが即位。
それに対し弟トスティが異議を唱え、ノルマンディー公ギヨームは自身こそが後継者であると主張。
周辺諸国の利害も絡み合い、複雑な対立関係が形成されていた。
(この他にもハロルドはランカスター等北部の大諸侯、ノルウェー王ハーラルといった敵を抱えている)
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ここに際し、コナン公はハロルドとの間に対ギヨーム同盟を締結。
ギヨームがイングランド侵攻の準備の根回しに苦心する間に親ノルマンのブルターニュ諸侯の制圧を開始した。
ハロルドからの資金援助を活かし軍備を整えたコナン公は巧みな挑発で諸侯を暴発させて足並みを乱し、各個撃破に成功する。
これによりコナン公はブルターニュを統一し、強大な君主権を打ち立てることに成功したのであった。
予定していたブルターニュ諸侯の援軍が得られなくなった上、ノルウェー王ハーラルが突如病を得て遠征を断念したことでハロルドの治世は安定してしまう。
独力でのイングランド侵攻を断念せざるを得なくなったギヨームはコナン公への報復を誓ったと言う・・・
即位当初からの権力闘争に勝利してようやく人心地がついたのであろうか、コナン公はようやく結婚を決意したらしい。
相手は海峡の対岸、ブルターニュとルーツを同じくするコーンウォール公の姫君であった。この結婚は互いに有力な同盟者をもたらすと共に、統一間もなく未だ一体となっていなかったブルターニュにケルトの末裔としての強い民族意識を醸成させることに役立った。
後にイングランド王ハロルドが急逝し、あわや再びの後継争いか、と思われたときにもブルターニュとコーンウォールが一体となって
王子エドマンド-軍才に優れ、将軍として数々の戦功を立てていた-を支持したことで王国の安定を維持している。
しばしの穏やかな時が過ぎた。公夫妻は仲睦まじく過ごし、1男2女の子宝に恵まれる。
そこに急報が舞い込む。フランス一の大諸侯であるアキテーヌ公が王に反旗を翻したと言うのだ!
事情は以下のようなものであったらしい。
兼ねてよりフランス王フィリップとアンジュー公ジョフロワの険悪な仲は知らぬ者が無かったが、ある日王がアンジュー公を公然と侮辱、激怒した公が挙兵の準備を開始する。
いざ挙兵を宣言せんとする前日、公国内の裏切り者の存在もあり王が奇襲に成功、アンジュー公を追放する。
アンジュー公は各地に王の横暴を訴え、アキテーヌ公がそれに応えて反逆を決意、何人もの諸侯がそれに同調する。
ここに内乱が勃発した。
フランス王フィリップ 暗君として名を残す。
義の人、アキテーヌ公ギー その強大さが他の有力諸侯の嫉妬と猜疑心を招く。
ヴェンダム伯、後にアンジュー公ギー フランス王に内通して主君アンジュー公を破滅させ、その功でアンジュー公位を与えられた直後に反逆。 その変わり身の早さには誰もが驚きを通り越して感心せざるを得なかった。
トゥールーズ公ギヨーム アキテーヌ公に同調すると見せかけ、軍が出払った後のアキテーヌ公領を攻撃。 仏王軍の戦局を好転させる。
報告を受けたコナン公は軍の召集を命じる。即位時の経緯もありイングランド王エドマンドは全面的な支援を快諾。
1075年3月、ブルターニュは以前からの領土争いを解決し、アキテーヌ公を救うべく。イングランドは王位僭称者を黙らせるべく、フランス大乱に参戦した。
ドイツ王は同盟者であるフランス王を助けるとの名目で侵入、各地を占領して居座っている
命令を平然と無視する自軍、どちらの味方か分からない同盟軍に苛立つ仏王フィリップは無謀にも英軍の大陸側本拠、ブルターニュへの遠征を決意。
イングランド軍8000とフランス軍5500が激突。 英王エドマンドは仏王フィリップを一騎討ちの末討ち取った。
そもそもの発端が王の身勝手であったため士気の低かった王側諸侯はこれを期に完全に王国を見捨てる。
翌年3月、パリで結ばれた和約の内容は以下の通り。
・アキテーヌ公領は完全な独立を認められ、仏王のアキテーヌ公への宗主権は失われる
・アンジュー公(元ヴェンダム伯)の地位は正式に承認される
・前アンジュー公の後継者にはベリー公位が与えられる
・ライム司教領(仏王に反乱し独軍に占領されていた)の税収は独王が得る
・仏王のブルターニュへの宗主権主張を取り下げる
・仏王はノルマンディー公ギヨームのイングランド王位継承権主張を承認しない
以上と引き換えに王子アントンは王位の継承を認められた。
コナン公はこの戦で長年の係争地であったメンを手中に収めた。
これ以後のコナン公は持病の癲癇に苦しむようになった。
度々発作を起こし、始めのうちは単なる補佐であった公妃アリードが後には完全に執務を代行するようになる。
戦から10年ほど経ったある日、発作がついに彼の命を奪ったのだった。
公位を継承した息子マルクは14歳であった。
コナン公は7歳の若さで父を継ぎ、治世の前半においては親族や隣国の横暴に悩まされている。
息子の成人前に死す心残りはいかばかりであったろうか。
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