【フリードリッヒ1世(在位1184~) ドイツ・イタリア・ブルグント・ボヘミア・シチリア・フランス・レオン・カステーニャ・アラゴン・ポルトガル・イングランド・ウェールズ・スコットランド・アイルランド・ポーランド・リトアニア・ハンガリー・モーリタニア・デンマーク・スウェーデン・ノルウェー・ブルガリア・セルビア・クロアチア・ルーシ・セルジューク・アルメニア・フィンランド・ヌビア・グルジア・アフリカ・シリア・メソポタミア・ペルシア・エルサレム・アラビア・エジプトそしてハザール王を兼ねるビザンツ皇帝】
直轄領:Franken、Leiningen、Ulm、Wuttemberg、Venezia、Genoa、Mainz、Byzantion、Baghdad、Alexandria、Roma
フリードリッヒ帝は、留学経験も豊富でありその英邁ぶりから即位前から期待されていた人物である。
(留学中だとProdigy(逸材)がつきやすいので狙ってましたが、6代目にしてやっと…)
即位式で彼の横に座るのは、皇帝が青年時代に妻に迎えたアラブ貴族の娘であり、皇后となる予定でである。
さらに多種多様な民族の文武諸官が立ち並んだこの即位式は、まさに帝国の拡大と帝国による融合を象徴していたと言えるのである。
しかしこの帝国の東側(イスラム文化)への迎合は一部諸侯・教会の反発を招き
フリードリッヒは、その統治の初期をカトリック諸侯の反乱鎮圧で始めなければならなかった。
諸侯の鎮圧に成功し、帝国国内に皇帝の威光が広がったと確信すると
フリードリッヒは、ウルリッヒ・ディートリッヒ帝の仇を打つべくクマンの地へと向かった。
クマン討伐なくして、帝国の名誉は回復されないのである。
幸いにも、ウルリッヒ・ディートリッヒ二皇帝が築いた砦や、
彼らの戦争の記録から、クマン族との戦いは終始有利に運び、
2年の歳月をかけ、ついにクマンの勢力をカザフの地から追い払うことに成功した。
クマン族は遠く草原の彼方へと、逃げ去ったという。
これを機にハザール王(日本語訳は何だろ?)を名乗る。
騎士団員が、住民に暴力や淫猥な行為を働いているとの報告を受け、
チュートン騎士団の特権を剥奪、これを滅ぼした。
この背後に反皇帝の意志の下、諸侯を惑わす教皇の影が見えたため、皇帝は教皇領へ侵攻。
ローマを皇帝直轄地とし、教皇に無言の圧力をかけた。
ローマを追われた教皇は、諸侯に働きかけ
皇帝に最後の抵抗を試みようと企てていたが、この計画は事前に露見。
教皇領は没収され、経済的基盤を失ったことにより、その影響力は一気に低下した。
最後の足掻きでしょうか。
古のカールの故事をひいて、教皇領の復活を懇願してきました。
せっかく滅ぼしたものをわざわざ復活させるのも本末転倒ですので無視。
結果として、背徳の都ローマに異端の風が吹き荒れることとなりました。
1198年、教皇領の滅亡をもってフランケン朝の拡張政策は終わりを迎えたのである。
世界征服を終えましたが、月に3,4諸侯が独立戦争を挑んできやがります。
モンゴル到来まであと20年も耐えられないので、
mongol_invasion_events.txtをいじってすぐにでも登場するようにしようかなぁ。。。