作者のPCがCKの必要スペックぎりぎりのためか、CKが非常に不安定で、クラッシュ・フリーズが多発し、特に帝国領土が肥大してからはそれがひどいものとなっております(1年間(CK時間)に数回。オートセーブが1年毎なのに...)。
そのためこのプレイレボは、内容が数時間で変更されている場合や、時間やイベントがあいまいなところがあります。
というかもう変更があります ( ´∀`)σ)∀`)スイマセン
ご了承ください。
東ローマ帝国は、東西ローマ帝国分裂の4世紀から、オスマン帝国による制圧の15世紀までの約1000年という大変長期に渡って続いた国家である。「文明の十字路」と呼ばれる紛争が絶えないこの地でこれほど長期に渡って続いたのは、優秀な民族がいたこと、首都コンスタンティノポリスの大城壁、洗練された官僚制度等があげられている。
ドゥーカスが王位を受け継いだときはかつての地中化の覇者の面影は全くと言っていい程なく、中東はムスリムに、南イタリアはノルマン人に占領されてしまっていた。
ドゥーカスはローマ帝国の領土を回復することにその生涯を捧げるつもりであった。
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↑紫色が開始直後の東ローマ帝国の領土。下の方に見える青色はエルサレムをもつファティーマ朝
1067年1月、まずドゥーカスはそれまでの顧問を更迭し、新たに顧問を選びなおした。
顧問の能力は以下を参照
*皇帝(Emperor) コンスタンティノス10世ドゥーカス (60) 8/7/6/6 *軍事顧問 ニケフォロス(65) 軍事11/名戦術家 *財政顧問 パトゥリキロス(28) 財政10/雄弁家、三つ口、寛大 *外交顧問 バーダス(28) 外交10/天資の交渉人、執念深い、慈悲深い *諜報顧問 ロアネス(28) 諜報8/利己的、名戦術家
ドゥーカスはこれほど優秀な官僚がいることに改めて明るい帝国の未来を信じた。
ただ、ニケフォロスが高齢なことと、パトゥリキロスが障害を持っていること、そして何よりも自身の高齢が気がかりであった。
次に法律を封建契約に制定した。さらに貴族への税金を減額し、教会への寄付を増額した。
ドゥーカスは民衆への税金を減額し、忠誠心の増加を望んだが、現行の法律ではこれ以上の減額はできないとパトゥリキロスに忠告され、仕方なくあきらめた。
研究機関へは弓・農業・学問の研究を優先的にするようにと命令した。
ちなみに法律の変化で一時的と思われる属国の忠誠心の低下が見られた。
次に収入も乏しく、その上ムスリムとの最前線にあるビラを臣下のジョージオスに与え、国民の信仰心を増加させた。
1067年3月、軍事顧問ニケフォロスが老衰により死去。代わりに諜報顧問のロアネス(軍事10)が軍事顧問となり、ポスト・ロアネスにはシェオドゥラ(18/諜報8/宮廷教育)がついた。
1067年8月、シェオドゥラが教育を終え、華麗なる策謀家となった(諜報9)。若くして皇帝直属の顧問となったシェオドゥラはその地位を完全に固めたといえよう。
1072年1月、ある程度内政基盤を固めたドゥーカスは、ついに異教への侵攻を決意する。
ドゥーカスには、「もうすぐ天に召されるのではないか」という焦りもあった。
東ローマ帝国は異教国ツァーヌへ宣戦布告。ツァーヌの宗主国フェチェネグスに宣戦布告される。クリミア半島直轄領の2部隊はベルゴルドに向かい、国王軍はツァーヌに向かった。
1072年3月、第3隊が異教国ビァールドに宣戦布告
1072年4月、第4隊がセバリンに侵攻。
1072年6月、ベルゴルド占領。部隊は異教国オルビアに侵攻。
1072年7月、ツァーヌ占領。国王軍はフェチェネグス侵攻。
1072年10月、ビャールドを途中から割り込んできた同盟国ポーランド王国に取られる。
1072年12月、セバリンを占領。
1073年1月、オレシェイに侵攻。戦力が少なくなってきたのでここで帝国の属国全てに動員令を発令。クリミア半島に集結させる。
1073年4月、オレシェイ制圧
1073年5月、異教が住みつく黒海北部沿岸へ侵攻
1073年6月、属国セルビア公国によってチアゴビスチェが陥落。
これで、ドナウ川北部・ルーマニア地方を治めていた異教国群のほとんどが帝国領となった。
1074年4月、黒海南東沿岸、トラプソン公爵が独立を宣言。ドゥーカスは激怒し、征伐に向かった。
同時に、あいつぐ戦役が理由の一つでもあることを悟った。
[反乱→戦争が長引く→反乱]の悪循環の危機のため各属国に支援金を送り、属国の忠誠度の増加をねらった。トラプソン公爵との戦争は速やかに終わらせる必要があったため、全軍を全力で向かわせた。
1074年11月、トラプソン公爵に賠償金を払わせることで和平に合意。これは公爵の独立を許した形になってしまった。
1074年12月、まだ属国の反乱の可能性があるため、各属国に2度目の支援金を送った。
1074年1月、帝国は黒海の沿岸をほぼ制圧し皇帝直轄領はなんと17州もあり、月の収入は100を越えた。
そこでドゥーカスは首都コンスタンティノポリスに大宮殿を建てることを命じた。建築には多大なる資金が必要であったが、東ローマ帝国にとっては資金練りは安易にできた。
大宮殿の建設で、正統なローマ帝国の後継者であることも世界に広める狙いもあった。
顧問との会議の際に、「戦力の補強が優先だから士官学校を建設すべき」と言うロアネス軍事顧問派と少々揉めたが、そこは、ここ数年で威厳を高めた皇帝の一喝で宮殿建設に決まった。
<続く>