Ruben公は いのりを ささげた。 なんと 公国は よみがえった!
1088年に晴れてアゼルバイジャン公となったRubenであるが
モスル(Mosul)国やビザンツ帝国からの圧力は日に日に高まる一方で気の休まる暇がなかった。
孔明曰く
「中立のエデッサ首長国を手中にすれば、ビザンツやモスルに勝てないまでも負けない戦いができますぞ。」
後にいうアルメニア三分の計である。
この言を受け、Ruben公は瞬く間にエデッサ一帯を確保。
エデッサ一帯は、カフカスで育ったRuben公にとっては想像を絶する大都会であった。
道路は整備が行き届き、図書館や学校まであるばかりか、何より街を行きかう人々の数が違った。
これらエデッサ地方の富を手に入れたアゼルバイジャン公国は、軍備の増強を図り、
ビザンツ帝国から半ば独立状態となっているキリキア地方とトレビゾンド地方へと軍を向ける。
キリキア地方は、ビザンツとセルジュークの抗争を逃れたアルメニア人が多く住んでいたからである。
キリキア、トレビゾンド地方は、バグラティド朝アルメニアの支配地域ではなかったが、
古代アルメニアの最盛期には支配域であったことから、
アルメニア王国再興を目指すRuben公にとっては悲願の地であった。
Ruben公の軍が近付いていると聞くと、現地のアルメニア系住人がビザンツ貴族を追い出したため
ほとんど無血入城に近い形で、キリキア地方はRuben公の支配下に置かれることとなった。
トレビゾントではグルジア王国の横やりもあり、制圧は難航したものの
グルジア王国の隣国アラニア公国と結び圧力をかけることによって、支配下に置くことに成功した。
このキリキア、トレビゾンド地方制圧(1116年)をもってアルメニア王国の復活と見る学者は多い。
1120年頃の勢力図。赤丸部分が未回収のアルメニア。
グルジア王国、アラニア公国ともクマン族を撃退し大国となっている。
つづく