プレイレポ/Die Geschichte von Hapsburg
第二代Habsburg家当主。
イタリア、ブルグンドを手放したものの、リトアニア、デンマーク、ボヘミア、ポーランド、スウェーデン王位を獲得し大王と呼ばれた。
一方で急速な領土拡大の影で多くの敵を作り、晩年は毒殺未遂事件も発生した。
なお、信仰に篤いことで知られ、彼の治世で設立された司教領は多く一方で取り潰された司教領は記録に残っていない。
1182 | Konrad、ハプスブルク家を相続 |
神聖ローマ帝国解散 | |
ドイツ王国誕生 | |
1094 | 第一次フィンランド遠征 |
リトアニア王位を宣言 | |
1095 | ローマ教皇が第一回十字軍を提唱 |
1098 | ザクセン公征伐 |
1100 | Konradが教皇後見人になる |
第二次フィンランド遠征 | |
1104 | メーメルにチュートン騎士団が誕生 |
1105 | チュートン騎士団を臣従させる |
チュートン騎士団合邦 | |
1110 | 対エジプト戦争 |
1111 | 第三次フィンランド遠征 |
1114 | 内乱の危機を迎える |
ノブゴロド公爵領遠征 | |
1116 | 対ハンガリー戦争 |
1117 | 第四次フィンランド遠征 |
対イングランド戦争 | |
1118 | デンマーク王位獲得戦争 |
ボヘミア王位継承戦争 | |
1124 | ポーランド王位獲得戦争 |
1125 | 内乱の危機を迎える |
1127 | 内乱終結 |
1128 | スウェーデン王位獲得戦争 |
1128 | ノルウェー王位獲得戦争 |
Konrad何者かに毒を盛られる |
1129年、北欧攻めの最中にKonrad死去。
その遺言は、「恨みを買うなかれ。教会に敵対するべからず。」だった。
1182年、7歳でハプスブルク家の家長になったKonradに、王国各地で間断なく反乱の火の手が上がる。
当主が幼く、未だ王家の地盤も固まっておらず、現在の体制では数多くの強力な諸侯をまとめることは容易ではないと判断した家臣団は兄Ottoにブルグンド王位を授ける事を決定し国内の安定を図ったが、それだけでは依然として諸侯を抑えることができず、ピサ大司教をイタリア大司教座へと格上げし、ローマ教皇を後ろ盾を得ることによってようやく国内の安定を取り戻すことができた。
これは同時に神聖ローマ帝国の解散を意味したが、幼いKonradに何一つ相談されることなくことは運ばれたのだった。
成人したKonradは、たちまちに王国各地の反乱を鎮圧することに成功した。
しかし、その勝利はカトリックの盟主たるローマ教皇と中世に入って以来急速に力をつけてきたハンザ同盟の潤沢な資金によるものであった。
教皇と商人たち、キリスト教の布教と交易圏の拡大を要望する彼ら双方の期待に応えんがために、Konradは玉座を暖めるまもなくバルト海沿岸へと兵を動かすのだった。
1094年、第一次フィンランド遠征
バルト海諸部族を配下に押さえ、デンマーク本土へ上陸する勢いを見せたフィンランドに対して宣戦布告したKonradはメクレンブルクを初めとしてドイツ本国に近いところから順にポメラニア、プロイセン、クロニア、ラトガレと次々に諸部族を下し、沿バルト地域をさらに北上する構えを見せた。
そして、フランスの対フィンランド参戦を契機とし、フィンランド族=ドイツ王間の和平が結ばれた。
この遠征でリトアニア一帯の派遣を確立したKonradはローマ教皇からリトアニア王位を送られ、リトアニア一帯のキリスト化に尽力することを誓うのだった。
1100年、第二次フィンランド遠征
しだいに進むリトアニアのキリスト教化に脅威を覚えたフィンランドが、クールラントに兵を進めたのが第二次フィンランド遠征のきっかけである。
この戦いで、デンマークは沿バルト地域から完全に撤退したが、海をリューベック・メクレンブルク・ダンツィヒ艦隊、陸をKonrad率いるリトアニア諸侯連合軍によって瞬く間に北上され、エストニア以南をドイツ領とすることで双方に和平が成立したのだった。
第三次~第五次次フィンランド遠征
沿バルト地域をめぐるドイツ王国とフィンランド族の戦いはさらに続いたが、第一次、第二次フィンランド遠征と異なり、第三次から第五次遠征では小規模な小競り合いがいくつか行われた程度で、大規模な開戦は起こらなかった。
これはKonrad自身が長く病を患い長期にわたる遠征が困難だったこと、ドイツ国内の情勢が安定せず大規模な軍事行動が不可能だったことが原因として挙げられる。
1105年、メーメルにて騎士修道会の一つチュートン騎士団が設立された。
チュートン騎士団は他の騎士修道会(テンプル騎士団と聖ヨハネ騎士団)とは異り、聖地ではなくバルト海沿岸の異教徒を征服することを期待された。
当時の騎士階級は長子単一相続制が普通であり、例え生まれが比較的裕福な家でも、次男、三男ともなれば、城はおろか領地すら持たず財産は馬と武具だけというような貧しいものも多かった。
そのため、身を立てるために唯一の教養である武芸を生かすべく、傭兵として働くものも後を絶たなかった。
各地にそれぞれ強力な政権が誕生し、小康状態が続いた欧州においての彼らの活躍の場は少なく、十字軍や宗教騎士団に身を投じるものが多かった。
そのような背景を持つ騎士団に目をつけたKonradは彼らに積極的に資金援助すると共に、ローマ教皇に根回しをし、初代騎士団長が死亡した後には自らがチュートン騎士団総長を兼ねるようになる。
これはいわば金で地位を買い叩いたようなものだったが、チュートン騎士団自身に巨力な後ろ盾が必要だったこともあり、当時の教皇はこの提案を歓迎した。
当時の王にとって多くの領邦君主は油断がならず、かつ期限付きでしか徴募することができなかった。
もし、長期にわたって徴募しようとすれば、彼らは抜け目なく王からさまざまな特権を引き出そうとしたし、地方分権的な王国の体制ではそれを断固として拒否することが難しかった。
そのため、領主たちの兵を用いるよりも給金を支払い続ける限り忠実に働く傭兵のほうが扱いやすかったのである。
デンマークを併合してバルト海の覇者となり、沿バルト地域の制覇を固めるKonradには悩みがあった。
ドイツ本国とバルトをつなぐダンツィヒ一帯、通称ポメラニア回廊を脅かすポーランド王国・ボヘミア王国連合の存在である。
1120年、ボヘミア王が天に召され、同盟が解消される。これを機会と見た、Konradはかねてからの信仰に篤いとの評判を利用してローマ教皇に働きかけ、ボヘミア王を破門させることに成功する。
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Konradの懇願によりボヘミア王を破門した教皇Welf(元マインツ司教) |
そして1125年、長年の懸念だったドイツ本国からリトアニア地方への接続を確保すべくポーランド侵攻を開始する。
ポーランド王Juksuz・Piastはドイツ軍を分断すべくポメラニア地方に全兵力を集中するがドイツ、ボヘミア、リトアニアと三方向から同時侵攻を進めたKonradに瞬く間に本拠地のポーランドを占領され、ポーランド王位を渡すことを条件に和平条約に調印したのだった。
イングランド | 1117年にプラバントに侵攻してきたがほぼ初期領土のまま |
スコットランド | アイルランドを併合 |
ウェールズ | 特になし |
フランス | カペー朝が断絶しカール大帝の直系ヴェルマンドロワ家が王位に付く |
ナヴァラ | アラゴンを併合し、一躍レコンキスタの主役 |
レオン | 2プロヴィンスで目の前にはエジプト王国・・・瀕死です |
カスティーリャ | ブルゴーニュ朝に変わっているが状況はレオン王国と似たようなもの |
ブルグンド | Konradの兄Kunoは死亡し、王位は甥っ子のOttoへ |
イタリア | 大司教領設立時から敵対していたトスカナ公を併呑 |
ノルウェー | 全土占領済み、併合秒読み |
ハンガリー | クロアチアを併合しアドリア海に到達 |
ビザンツ | 相次ぐ内乱で四分五裂 |
エジプト | イベリアの雄だがエジプト本国は虫食い状態 |
セルジュークトルコ | 十字軍相手に善戦 |
その他 | 詳細不明 |