僕は罠を用意した。
1432年、エジプト 地中海南岸の覇者マムルーク朝の本国
罠の名はエジプト。
800年前に帝国が放棄した肥沃な属州だ。
いくつかの土侯国がマムルーク朝からの自立を保っていて、
ここからエジプトを食い破ることができる、ように見える。
グレブ・バサラブ)皇帝陛下はエジプト遠征を計画しておいでです。
ダニシュメンド・コペル)御武運を祈ると伝えてくれ。
ニケーア公は参加なさらないのですか?
陛下は決して公を悪く思っておられるわけではないのです。
後詰めでかまわないのです。贈り物も預かっております。
わかった。考えてみよう。
誠意が通じたとは思わない。
皇帝軍の留守をねらって内地に居残るような貴族を
僕が許しておくはずがない、と考えたのだろう。
それは正しい。
こうして叛意5貴族の全員がエジプト遠征に参加することになった。
僕らは肩を抱きあって和解を演出した。
叛意5貴族 ニケフォロス・ド=ジョワンヴィル、 ダヴィド・パレオロゴス、イサキオス・セルブリアス、 ダニシュメンド・コペル、デメトリオス・アンティオキテス
秋、遠征軍はナイル河口ダミエッタをめざして出撃した。
同盟国ヴェネツィアがすべての輸送を引き受けてくれる。
葡萄酒色の海をおおう聖マルコ獅子旗が頼もしい。
僕は旗艦の船尾楼に立って、
遠ざかるコンスタンティノープルの都を眺めていた。
ひとり思いに沈みながら。
封臣の一人が異教徒に拉致され、惨殺される
上陸早々、騒ぎが起きた。
ニケフォロス・ド=ジョワンヴィルが行方不明になった。
ダミエッタ郊外の民家で発見されたのは一週間後。
ひどい死に様だった。
僕はニケフォロスの昔の友人として彼の葬儀を執り行った。
流した涙は嘘じゃない。
1432年10月、コリント伯ニケフォロス・ド=ジョワンヴィル死亡(下段中央) 残り4人
ダミエッタの砦がなかなか落ちない。
小さな土侯国のくせに戦力が充実してて、
ちょっと城壁に近づいただけで猛烈な弓射をあびせてくる。
ニケーア公ダニシュメンド・コペルが負傷した。
僕はダニシュメンドに帰国を許した。
歳だし、あの傷ではもう永くないと思う。
予定より早く事が進んでるけど、どんどんやってしまおうか。
コンスタンティノス)アルメニアコン公はいつもの幕屋だね?
ソフィア・ダルマニャック)はい。
では、やれ。
戦陣にてイサキオス・セルブリアスの暗殺に成功 密偵頭を発覚2回で、本人を未発覚1回で
僕はイサキオスのために主に祈った。
ほんとにいい奴だったんだ。
1433年2月、アルメニアコン公イサキオス・セルブリアス死亡(下段左) 残り3人
5月、ニケーア公ダニシュメンドが叛逆したことを知らされた。
彼が故国へ引き上げてすぐだ。
内乱の危機にはつながらなかった。
この時点で叛意を明確にしていたのは
もはやダニシュメンドだけになっていたから。
叛意諸侯をあぶりだし排除するという目的は達成された。
僕は見せかけの『エジプト遠征』を中止し、
遠征軍の帰還を命じた。
新ニケーア公ヤクート・コペル
7月、ダニシュメンド・コペルが死んだ。
やっぱりエジプトでの戦傷が致命的だったと思う。
後を継いだのはまだ10歳のヤクート。
ニケーアのコペル家臣団は冷静で、すぐに和平を申し出てきた。
僕はヤクートの再臣従を許した。
僕とダニシュメンドとの対立は個人的なもので、
コペル家に対して含むところはなかったんだ。
少なくとも、そういうことにしておこう。
1433年7月、ニケーア公ダニシュメンド・コペル死亡(上段中央) 残り2人
ニケーア叛乱が起きる少し前のこと。
小アルメニア公。ルドルフ兄君とのいさかいはまだ終わりませんか。
ルイ・リュクサンブール)終わるどころか。
主君のボヘミア王がアナトリアへ援軍をよこすそうだ。
ボヘミア王臣、モラビア公ルドルフ・ルクセンブルクと 小アルメニア公ルイ・リュクサンブールの対立は 幼時からのものだった
ボヘミア王 エドゥアルト・ルクセンブルク
ボヘミア王は本気だった。
ヴェネツィア公使からもたらされた情報によると、
アドリア海はボヘミア王軍の借り上げた船でいっぱいだそうだ。
1433年初夏、帝国はその臣下を守るため
ボヘミアとその同盟国イングランドとの戦争に突入した。
僕はすぐに防衛計画を立てた。
連隊は皇帝領の兵を中心に編成した。
エジプト遠征、ニケーア叛乱で疲弊した諸侯はゆっくり休ませた。
これら要塞化された州を拠点として、迅速に機動防御を行わせる。
ロマン・バサラブ奮戦
1433年9月。
エーゲ海地域はボヘミア王軍38000による大規模な攻撃を受けた。
ロマン・バサラブの奮戦により十数回にわたる攻撃は撃退され、
僕は帝国の防衛力に自信をふかめた。
翌年2月、僕はデメトリオス・アンティオキテスを陣中に呼び、
マケドニア公軍3600にアビドスへの進軍を命じた。
彼らはエジプトから帰還したばかりで消耗がひどい。
でも、僕は進軍を命じた。
1434年2月4日から6日にかけて マケドニア公デメトリオスはイングランド・ボヘミア連合軍と戦った 翌7日、マケドニア公軍からデメトリオスの姿は消えていた
アビドスでは激しい合戦がおこなわれた。
デメトリオスはよく戦い、よく守った。
僕はそれを知っている。
デメトリオスの魂に平安があるように。
1434年2月、マケドニア公デメトリオス・アンティオキテス死亡(上段右) 残り1人
ここまで極力暗殺を用いずにターゲット排除を行ったため 評判の維持と『内乱の危機』回避を両立させることができた
1434年7月、ボヘミア王軍撤退。
同9月、イングランド王軍撤退。
帝国の圧倒的な防衛力を見せつけて、1年間の干渉戦争は終わった。
帝都へ凱旋した翌日、僕はダヴィド・パレオロゴスを
ブラケルナエ宮殿に呼んだ。