スイス公への挑戦

4代目 謀略の人Bruno

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4代目Aargau伯Bruno。ハプスブルク家の勢力拡大の端緒となった人物として知られる一方、そのために二人の甥や自らの子と孫を含む多数の人間を暗殺したとも言われる。

Brunoの独白、我が父Otto [1060-1098] (1代目)

私はAargau伯Otto Von Habsburgの次男にしてAargau伯家の軍務長官を務めるBrunoである。我が父Ottoは狭く小さいAargauの地に不満を抱き、高貴なるHabsburgの血こそドイツに君臨する皇帝にふさわしいと夢想する狂気の人であった。しかし、現実のAargau伯家は皇帝の勘気に触れれば一瞬で取り潰されてしまうドイツ弱小諸侯の一人に過ぎず、勢力拡大の手段として考えられるのは、十字軍でなければ結婚と謀略によるより他なかった。

そのために我が父Ottoは諜報に優れた子孫を望み、デンマークより我が母Bodil(諜報8)を迎えた。我が母Bodilは我が兄Franzと私Brunoを生んだが、我が兄Franzは人のよいところがあり大国の宰相たるにはふさわしいが陰湿な事を苦手とし、我が父は陰気な弟の私にこそAargau伯にふさわしいと考えていたようだ。しかし、家督は長子にこそふさわしいもの、それを覆すものといえば著しい武勇であろうが、我が父Ottoの期待を受けて軍務教育を受けた私はどうにも軍隊の雰囲気に馴染む事ができず、心得違いの戦士と呼ばれる有様で輿望を集める事ができなかった。そして、我が父Ottoはその事に落胆したかのように世を去った。私に「公爵位を得るためであれば、スイスの地を血で染めよ」と遺言とも呪いとも取れる言葉を残して。

父は結局悪徳をなす事はなかった。人々はAargau伯領を立派に治めた父は天国に行っただろうと言う。しかし、父はこの私には地獄に堕ちよと言うのであろうか。

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初代Aargau伯Otto。Aargau伯領を無難に経営。

Brunoの独白、我が兄Franz [1081-1117] (2代目)

我が兄Franzはカリスマ的な交渉術で知られた。気前がよくお人よしで慈悲深さでも知られ、謙虚で寛大であると評判であった。あるいはドイツを治める皇帝であればその才能を十分に生かす事ができたのかもしれないが、その評判は狭いAargau伯領の中だけに留まり、せいぜい共に従軍した一部の諸侯に知られる程度であった。兄はその評判通りにAargau伯領を立派に経営したが、その表向きの明るさとは裏腹に常に何かにストレスを感じているようにも見え、後から聞いた話では自室でふさぎこんでしまい妻子を困らせてしまう事も多かったと言う。

兄は在位16年にして皇帝Ernst=Franken(2代目) の元で帝国に起きた内乱で皇帝に従い転戦し、その時に受けた傷が元で亡くなった。長子Folkhardは未だ8才で他には庶兄のBaldewinがいるだけであった。当然の成り行きとして私BrunoはFolkhardの後見人として伯領の経営を司る事となった。

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2代目Aargau伯Franz。外交能力に優れるも侯爵家では意味なし。従軍中に受けた傷が元で死去。

Brunoの独白、我が甥Folkhard [1109-1120] (3代目)

我が甥Folkhardは驚くべき少年であった。Folkhardは幼い頃より神童と呼ばれており、8才で伯家を継ぐ事になった時もFranzの遺徳と賢母Binhildeに守られ、それを不安に思うものは誰もいなかったほどである。

そのFolkhardが兄が遺したという秘密の書状を持って私の所に来た日の事を私は一生忘れまい。兄はその外交能力を駆使して近隣諸家の内情をよく調べており、隣国Bern伯の嫡男Dietmarの息子が一人のみである事とその姉のIdaが結婚適齢期を迎えつつある事に気が付いた。しかし、FolkhardはIdaの夫となるにはまだ若く、庶兄BaldewinはAargau伯の継承権を持たないためBaldewinの子供がBern伯を継いだとしてもAargau伯家とBern家の統合は叶わない、と。

兄の書状はそこで終わっていた。もしFolkhardが凡庸な少年であれば兄の示唆したした恐るべき事実に気が付かず、ただの外交分析文書として棚の奥にでもしまいこんで閉まったであろう。もしそうであれば私の魂はこれほどまでに血に染まる事はなかったであろうに。しかし、神童Folkhardはその事実に気がつき、そのためにこの書状を持って私の元にやってきた。そう、FolkhardはBaldewinとその子の継承権を有する。Baldewinの子にBern伯を継承させた上でBaldewinとその子を暗殺すれば、Bern伯は我がHabsburg家の手に落ちるのである、と。

あの明るく善良であった我が兄Franzが何ゆえこのような陰謀を思いついたのかは私には分からない。あるいは兄はただの外交分析文書としてこの書状をFolkhardに遺したのであろうか。いや、それは違う。この書状はIdaの成人直前にFolkhardに読むように言いつけられており、その意にFolkhardが気がつき、そして摂政をしているであろう私Brunoの元に持ち込まれる事を想定されていた事は明らかだ。…兄も父からの呪いの言葉を受け取り、恐ろしい陰謀と良心のせめぎ合いに苦しみ、ここ数年、心身に異常をきたしていたのかもしれない。

ともあれ、この話が私の元に持ち込まれた以上最早引き返す道はない。私と少年FolkhardはBern伯乗っ取りの陰謀を進める事にした。

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3代目Aargau伯Folkhard。11才で急死。叔父Brunoに暗殺されたとも。

兄の庶子BaldewinとIdaの結婚は皆に祝福されたものであったが、その後には惨劇が待っていた。甥Folkhardは私に暗殺されたのだという人もいるが、それは正しいとも言えるし、誤りであるとも言える。Baldewinの結婚を見届けた私とFolkhardは早速謀略を開始した。まず、祝宴の帰り道にIdaの父Dietmarを暗殺し、また、その長男Folkmarの暗殺にも成功した。暗殺を急いだのは中年に差し掛かったとは言えまだ子供を望めるDietmarと成人が近いFolkmarに跡継ぎを作られる事を防ぐためだった。とはいえ、あまりに露骨過ぎたこの暗殺はすぐにBern伯の感知するところとなった。報復は当然覚悟したが、その対象はBaldewinか我が子Adalbertであろうと予想していた。

嵐の夜、Bern伯の放った刺客はFolkhardの寝所に忍び込みその胸を一突きにした。神童と呼ばれた少年Aargau候Folkhardはわずか11才で世を去った。

暗殺を急ぎすぎたのがいけなかったのであろうか。30代半ばのDietmalにはこれ以上子は生まれなかったかもしれないし、それならば暗殺の必要はなかった。Folkmarの暗殺もFolkhardの成人を待ってからでよかったかもしれない。

Aargau伯は私が継承した。そのために私はFolkhard暗殺の疑いを受け続ける事になった。そして、私はHabasburg家のために悪魔に魂を売る事とした。

また、残念な事にあのか弱きFolkhardの犠牲は報われる事はなかった。Baldewinは妻Idaの父と弟をHabasburg家が暗殺したという罪悪感に耐える事ができず、息子を残さずして自殺。時を前後してBern伯は無謀にもドイツ王打倒の兵を上げて大敗し、Bernには王の手により司教領が設置され、私とFolkhardの陰謀は破綻した。そして、私にはFolkhardの犠牲の代償として手に入れたBernの請求権のみが残った。

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Folkhardの庶兄Baldewin。隣国Bern伯の嫡男Dietmarの長女Idaを娶るも子を残さずして自殺。Bern伯領の消滅によって邪魔になった叔父Brunoにより暗殺されたとも。

Brunoの独白、我が子Gerlach [1132-1135]

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Brunoの次男、Neuchatel伯Gerlach。3才でNeuchatel伯を継承するもその直後に変死。Neuchatel伯位は父Brunoのものに。

執筆休憩中。


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